瞑想の声は私の終わりへと導く(3)不快感
瞑想では身体の落ち着かなくなる時がある。
疲労がまたっていたり、ひどいストレスに晒されたときにはそうなる。
じっと座っていることさえ苦痛で、目も閉じていられない。
思考領域にさえ届かず、座ることに耐えているだけの瞑想。
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呼吸も乱れて落ち着かず、何度もため息をつく。
下腹部から違和感が放たれて、じっとしていられない。
腰や背中に痛みが走り、それは何度も息苦しさの波に変わる。
身体に緊張があって、それを緩ませることができない。
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それでも瞑想する意味はあるかもしれないと時が過ぎるのを待つ。
決められた時間を過ごして、ゆっくりと目を開ける。
そんなときには、瞑想から覚めるというよりは、まるで悪夢から目覚めたようだ。
心身とも疲れ果てている。
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瞑想では自分でも気づかない何かを解き放っているようだ。
それは身体を癒すための過程なのかもしれない。
身体の辛さを感じるということは、それが身体の中に潜んでいたということだ。
もし、それが解き放たれなければ、身体に蓄積されたままになる。
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蓄積され続けたそれは、いつか破裂するように解き放たれる。
それは病気なのかもしれないし、何かの痛みを伴う出来事かもしれない。
いずれにしても、何かしらの影響が身体に現れることになる。
その時まで、身体に何が起こっているのか知らずにいるのだ。
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瞑想中の身体の不快感は、そうと知らなければ心を悩ませる種になる。
瞑想自体が何か危険で悪いことなのかもしれないと不安になるかもしれない。
私は何度もこの混乱した瞑想を経験してきた。
それで、本当に危険だったり、さらなる体調の悪化を招いたりしたことはない。
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それは私が幸運だったからかもしれない。
もちろん、瞑想での不快感の理由はそうと証明されたわけではない。
それでも何かの理由があって起こるのだろう。
いまは自分の体験的なことで想像するしかない。
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私はそれで瞑想をやめようとは思わなかった。
むしろ望まない状況に置かれることで、じっくりと瞑想と向き合う気持ちができた。
瞑想の作用は分からないことが多いのだ。
自分の体験を通してその理解を深めていくしかない。
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だが、それだけではないかもしれない。
私は瞑想の中で誰かに導かれていると感じることもある。
それが誰なのかは分からない。
その誰かがいたから、私は瞑想を続けてきたのかもしれない。
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やめてはいけない、そんな言葉を聞いたような気がしたからだ。
実際に私はつらくなって何度も瞑想をやめようと思った。
瞑想をしていない時期さえもあった。
それでも、私はここに戻ってきた。
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