瞑想の声は私の終わりへと導く(2)思考領域
瞑想ではいつもすんなりと空領域に入れるわけではない。
むしろ、そんな瞑想は稀だといってもいい。
思考領域に囚われて、そこから出られないことがいまだにある。
思考が強く、どうしてもそこに巻き込まれてしまうのだ。
-
思考から夢のようなイメージが現れて、否応なくその物語に引き込まれる。
そうなると、思考領域を振り切るのが難しくなる。
結局、ほとんどの時間を思考とイメージの中で過ごしてしまう。
空領域は遠い世界のようになり、あの平穏な感覚に触れることもない。
-
そんな瞑想だと、覚めたあとに失敗だったと思う。
なんとなく落ち着かない感じだけが残っている。
身体も疲れているような重い感じがする。
こんな瞑想については、何も言べきことがない。
-
瞑想の状態はいつも不安定だ。
それは毎回違うのだ。
思考領域がひとつの壁になっている。
そこを突破できるかどうかで、瞑想の良し悪しがほとんど決まった。
-
長年瞑想していても、思考領域に振り回される状況は変わらない。
いつか空領域に安定的にいられようになれるだろうかと思う。
思考領域の巻き込む力は強く、そこに影響を受けずにはいられない。
蜘蛛の巣のように私を捉え、その絡まる糸を振り払うたびに苛立たしさが募る。
-
思考領域の力を強めているものは感情だ。
喜びや悲しみ、悔しさ、恐れが思考領域に厚みを持たせる。
それは過去の記憶から導き出され、昨日のこともあり十年前のこともある。
どの感情が現れるのか予測することもできない。
-
それは瞑想というよりも、感情の再体験になる。
喜びもあるが、ほとんどが疲れを引き起こす苦い体験が呼び起こされる。
瞑想は混乱の中に置かれて、もがいてもそこを出ることができない。
そうなると、もうこの瞑想を消化するしかないのだ。
-
なぜこのような瞑想になるのかは分からない。
それでも、あの静寂に満ちた瞑想を経験すると、この混乱した瞑想のことなど忘れてしまう。
だから瞑想を続けているようなものだ。
それだけが、私を瞑想につなぎとめている理由なのだ。
-
だが、「そこではない」という瞑想中の声がその空領域への信頼をも揺るがせる。
私はその声にわずかながら同意しているのだ。
そんな自分を不思議に思った。
空領域以上の瞑想状態など考えられなかったからだ。
-
私にとって瞑想はまだまだ未知のものなのかもしれない。
思考領域でさえ、そこは自分の中だというのに何のコントロールもできないのだ。
そう考えると、心の底しれぬ闇に落ちていく感じがする。
すべてがバラバラで、まだ何の形にもなっていない。
-
ただ、誰がそれについて教えてくれるというのだろうか。
多くの瞑想の教えがあるが、思考領域の問題についてはほとんど役に立たない。
私はただひとりこの瞑想の不安定さに取り組んでいくしかないのだ。
その先に突破口があるのかないのかさえ知りようもない。
-
いずれにしても、私の瞑想にはまだ問題があると分かっている。
それは私を悩ませているが、瞑想の可能性を示しているともいえる。
問題解決の糸口さえつかめていないが、問題自体は明確だ。
もしかすると、瞑想の何たるかを私はまったく知らないのかもしれないのだ。
0コメント