判断を超えた所にある真実:瞑想哲学

良い結果をもたらすために判断することは大事なことですが、判断やその結果が自分なのではありません。私たちは判断や結果が自分だと思っています。それではどこに自分がいるのでしょうか。それを見つけるために、私たちは判断を使います。

私たちは人生でいつも何かを判断しています。人生で判断することはとても大事です。その判断で人生が作られていくといっても過言ではありません。私たちは良いと思うことがあれば、それに取り組みます。その結果が良ければ良い判断をしたことになり、悪ければ判断を誤ったということになります。私たちは悪い結果になりたくないので、失敗の経験を次の判断に活かしていきます。でも、どれだけ経験を重ねても、完全に良い判断はなかなかできません。それでも、なんとか良い結果の率を上げていけるように判断の精度を高めていきます。


そうして、私たちは繰り返される判断の中に埋没していき、判断の結果によって築かれた経験の塊を自分だと思い込み始めます。判断を自分の拠り所にして生きていくことは間違いではありませんが、この判断し続ける無限の繰り返しから逃れられずにいることは、私たちの人生の本筋ではありません。それでは、この判断を拠り所にする状況から、私たちは逃れることができるのでしょうか。私たちはこの幾多の判断の中にあるたったひとつの抜け道を探し出すことができます。それが何なのかを判断していかなければ、私たちは判断と結果の塊になり、ずっと人生で何が良いことで何が悪いことなのかだけを考えて、あっという間に短い生涯を終えてしまうでしょう。


そのひとつの抜け道とは、判断しているのが誰かを知ることです。判断しているのがいったい誰なのかを知るために判断を使っていきます。私たちの判断するという機能はこのためにあります。判断しているのは自分ですが、私たちは何が良いことで何が悪いことなのかばかりに気を取られて、その判断している自分に気が付かずにいます。これは私たちにとって判断の新しい側面になります。私たちはそこで何を判断するのかではなく、判断している自分が誰なのかを判断していきます。


最初、私たちは自分とは身体であるとか、知識であるとか、能力であるとか、性格であるとか、過去の行為であるとか、そういった視点で探っていきます。いままでも私たちはそういった存在が自分だと判断してきました。でも、それらを自分だとすると、いろいろと問題が出てきます。たとえば身体が二つに裂かれたらどちらが自分なのだろうかとか、自分が知識や能力だとするなら自分とは増えたり減ったりするものなのかとかです。性格が変われば自分が変わるのか、過去の行為をすべて忘れたら自分は消えるのだろうかなど、これらを自分とするにはいろいろと問題点があり過ぎます。私たちはそられを自分とする判断が誤りだと認めなければなりません。


私たちはそれらは自分ではないと判断しますが、それ以外に自分がどこにいるのか分かりません。私たちは未だ見えてこない自分を見つけるために瞑想が必要だと判断します。そして私たちが瞑想する中で、心の中で何も判断していない状況であっても自分でいられることを確認します。そして判断が自分なのではなく、判断していなくても、判断していても、そこに変わりなく存在しているのが自分だと知ります。


私たちがこの自分自身を感じ取ったなら、その自分が真実なのか偽りなのか判断します。それが作られたものであったり、視覚的なイメージだったり、エネルギー的な感覚だったりするなら、それは偽りの自分に過ぎません。そういったものは存在するかもしれませんが、真実の自分ではないということです。それが決して失われず、動くことなく、ひとつの主体として在るものなら、それは真実の自分です。この自分自身が真実だと直接自分で確認されたとき、私たちは判断する自分を超えていきます。


私たちは自分や周りに起こることを判断してきました。それが真実なのか偽りなのか、良いことなのか悪いことなのか、好きなことなのか嫌いなことなのか、心地いいことなのか不快なことなのか、そうして物事を分割してきたのです。そういった作業が人生の大半を占めてきました。そしてその作業自体が自分自身になれば、その判断の繰り返しの世界から抜けられなくなります。でも、本当の自分を知ったとき、私たちは判断の上側に立ちます。そこに立てば、判断と自分が明確に分けられるため、判断そのものが自分ではないと知ります。判断と自分は別なものだと知るのです。


本当の自分は誰が判断しても真実であると認められることです。心の中の本当の自分を知ったなら、誰もそれを否定することはできません。それはこの宇宙で唯一の真実です。そしてこの真実は判断が自分だという幻想を打ち砕きます。本当の自分はあらゆるのもの中心にあって、決して分割することができないものです。もし、本当の自分の目によって、その自分の善悪を判断しようとしても、それは分割できないため判断することが不可能です。それは存在というすべてに共通する真実なので、良いとか悪いとかに分割することができません。つまり、本当の自分自身は善悪すらも超えているということです。本当の自分を善悪のどちらにも判断することはできません。この真実を目の当たりにしたとき、私たち自身が判断を超えたことを知ります。


本当の自分自身はどんな判断もつかない存在です。それは個人が行う判断を超えて存在しています。これが宇宙の唯一の真実であり、それは善でも悪でもありません。それはどちらつかずではなく超越しているのです。超越しているためそれは善でも悪でもないのですが、個人の判断によってそれは善や悪にもなりえます。それは個人の判断によって善や悪になるのですが、本当の自分自身は分割されないので、個人がそれを善や悪と判断したとしても、本当の自分の本質が変わることはありません。


本当の自分はどう判断されてもそれを受け入れます。批判も反論もしません。個人がどう本当の自分を判断し、個人がそんな判断自身になっていたとしても、超越した本当の自分はそのそばいて、そんな個人を黙って支えています。超越している本当の自分はそんな立場にいます。


本当の自分とは判断を超えた存在だと知ったとしても、私たちは個人として判断をします。個人としての自分が人生で判断することは自然なことです。それは人として疎かにするべきことではありません。超越したからといって、判断など必要ないというわけではないのです。でも、判断は自分自身ではありません。ただ個人に判断が起こり、それによって世界が動いているだけです。本当の自分はそんな世界の中心にいて、そうして個人に起こる判断と結果を尊重し、黙ってそれを見ています。


そうであっても、本当の自分は世界に起こることに無関心であったり、冷ややかに思っているわけではありません。どれだけ私たち個人の判断が間違っていようと、この世界を悲劇的にしようとも、本当の自分は黙って私たちの一番近くに寄り添っています。この判断を超えた本当の自分という存在が、私たちの自由な判断を支えていて、どんな判断であっても、その結果が間違っているとしても尊重してくれているのです。そして本当の自分はそんな個人や世界がどうあろうとも、変わることなく沈黙を貫き、ひとつとして絶対的な存在で在り続けます。

空風瞑想

空風瞑想は真我実現の瞑想法です。瞑想の中で今まで気づかなかった心の新しい扉を開き、静寂でありながらも存在に満ち溢れ、完全に目覚めている本当の自分をそこに見つけていきます。「私は誰か」の答えを見つけて、そこを自分の拠り所にするとき、新しい人自分としての生が始まっていくでしょう。