頑張る必要があること:瞑想哲学
誰もが人生で頑張って生きています。でも、私たちはその頑張りに疲れることがあります。どれだけ頑張っても望んでいる結果を得られないこともあるのです。ただ、本当の自分を見つける頑張りだけは、私たちに確かな結果を与えてくれます。
私たちは人生で生きていくために何かを頑張っています。その頑張りはとても大切なことです。自分の夢を追いかけたり、目標を達成するために頑張る人の姿は美しくもありますす。でも、私たちは頑張ることに疲れることがあります。時々、もう頑張りたくないと思うのです。何もする気がなくなって、なんとなく罪悪感を感じながら、日々時間を費やしていきます。そんな時は、頑張らなくていいと言う言葉が救いになります。頑張らなければならないと思っていた自分にとっては、頑張れなくなったときに頑張らなくていいという許可はありがたいものです。そして、頑張らないで生きていくことも、それはそれで有りなのだと感じます。生きているだけで素晴らしいと思うこともあるからです。
私たちは人生で頑張るべきなのでしょうか。それとも頑張らなくてもいいのでしょうか。私たちの努力の結果は必ず報われるという保証がありません。努力が報われた人であれば頑張るべきだという信念を持つことができるでしょう。ただ、不運に見舞われたり、タイミングが悪ければ、努力の結果を得られないことなど無数にあります。そういう経験をした人は努力しても仕方がないと考えてしまいます。でも、その答えは頑張るべきだということです。私たちはこの身体が朽ち果てるまで努力する必要があります。たとえそれが失敗や無意味な結果になったとしても、人に笑われようが、苦しさから逃れたいと思ったとしても、その頑張りが人間としての生を輝かせるのです。
でも、私たちが世界に何かを求めている限り、残念ながら、どんなに頑張っても満足できる成果を得ることはできません。私たちは満足できる成果を求めて果てしなく努力を続け、その結果を得られないまま死んでいきます。一時的な成果は得られるかもしれません。そこで満足して達成感を感じるかもしれません。でも、それはあっという間に過ぎ去っていきます。気がつけば、そんな達成感は過去の記憶となり、私たちは成果が得られていない状態に戻っています。そして自分はいま何も手にしていないと感じるのです。
唯一、私たちが努力をして満足できる成果を得られることがあります。それは本当の自分を見つけるということです。本当の自分を見つけることは、この私たちの人生でただひとつ完結できることです。実は私たちが人生で頑張るべきか頑張らざるべきかの問題の前に、何に努力するべきなのかを知ることが一番の問題なのです。それを知らないために、私たちは世界で何かをやみくもに頑張っています。そしてその結果、何の成果も得られずに疲れ果ててしまうのです。
本当の自分は瞑想することで見つかります。私たちが瞑想で本当の自分を見つけようとするとき、そこには相当の頑張りが必要になります。何しろ本当の自分を見つけることは誰にとっても初めてのことです。何度も試行錯誤を繰り返します。間違ったことを真実だと思い込んだり、いままで大事にしてきた自分の哲学が役に立たなかったり、混乱して自分を見つけることに意味があるのか分からなくなったりします。本当の自分を見つけるためには、瞑想でこれらの難関を乗り越えて行かなければなりません。そのとき、私たちの粘り強い頑張りがなければ、私たちはどこかで妥協したり、途中で諦めてしまったりしてしまうでしょう。そうなれば、人生の一時的な成果に慰められながら生きていく道を選ぶことに戻ってしまいます。
私たちが瞑想で振りかかる困難を超えて本当の自分を見つけたとき、それを見つけるための頑張りは必要なくなります。もう頑張る必要はないのでしょうか。残念ながらまだ頑張らなければなりません。今度は本当の自分でいることの頑張りが必要になります。いままでは探すための頑張りでした。それは動きのある頑張りです。今度はそこにじっとしているという頑張りです。それは動きのない頑張りになります。じっとしてそこにいるだけという頑張りは、探す頑張りよりも辛いかもしれません。退屈で無意味さが頭をよぎります。私たちはじっとしていられなくて、つい何かを探すようにそこを出てしまいます。それに気がついたら、また元に戻ってじっと頑張ります。
その動きのない頑張りが実って、やがて私たちは自然に本当の自分としていられるようになります。頑張りを外しても、自分がそこにいることは変わりありません。そうなれば、もう頑張る必要はないということです。ただ、このことは自分に厳しく検証しなければなりません。中途半端であれば、私たちはすぐに元の世界へと戻ってしまいます。そして気がつけば、世界の中に自分を探そうと必死になって頑張っています。そのとき、私たちは本当の自分を見失っています。そうならないために、私たちは瞑想でしっかりとそこにいるという頑張りを、それが完全に定着するまで粘り強く続けなければなりません。それは必ず定着するので、そこにあるのは時間の問題だけです。
もし、本当の自分に完全に定着したなら、私たちは頑張る必要はなくなります。もう頑張らなくても本当の自分でいることに変わりなく、それどころかどう頑張ってもその自分でいる以外にできなくなります。その状態になった人は、もう頑張る必要はないでしょう。自分でもそう確信できます。賢者の言葉の中に「自分でいるために頑張る必要はない」とあります。でも、本当の自分の状態になっていない人は頑張らなければなりません。賢者の言葉は、本当の自分でいる立場で話していることが多いので、そうでない人は注意深く聞く必要があります。本当の自分を見つけていないなら、そんな賢者の言葉には意味がありません。私たちは自分が納得できる最期の最期まで気を抜かないでいることです。
本当の自分になった人でも頑張ることはできます。自分を見つける頑張りはもう必要ありませんが、この身体とマインドを使って世界で頑張ってもいいのです。それは自分探しで切羽詰まった頑張りというよりは、頑張りたいから頑張ってみるという無邪気な感じです。頑張ることに義務感や悲壮感はありません。もちろん、本当の自分を知らない人でも、そういう人はいるかもしれません。でも、そこには違いがあります。それは本当の自分を知っている人は、世界で最高のことをすでに成し遂げているということです。人生にこれ以上の成果はありません。どれだけ世界で頑張って何かを成し遂げても、それは本当の自分を知るという成果以下のことです。それでも頑張ることは自由にできます。つまり、すでに最高の結果を得ているという点が、自分を知らないけど好きで頑張っている人との違いです。
私たちは目標に向かって頑張ることを続けていかなければなりません。そしてそれは何に頑張るのかということがとても重要になります。本当の自分を心の中に見つけるということが世界で一番大切なことです。それを見つけることに頑張ることができれば、私たちは確かな成果を得て、人としての人生のミッションを果たすことができます。その頑張りだけは確実に報われるのです。瞑想ではそんな頑張りが必要です。瞑想で何もしないなら、空とか無とかの中でぼんやりと何もしないまま終わってしまうでしょう。それは瞑想として間違いではないかもしれませんが、私たちは何もしないところから先に進むことができます。先に進めるなら、なぜ進まないのでしょうか。瞑想で自分を見つけるという努力を発動すことで、先に進まない壁を突き破ることができます。そして失われることのない人としての完成をそこに極めることができるのです。
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