世界を生きていく視点の選択:瞑想哲学

私たちはこの世界を生きています。この世界とは五感で感じる世界です。でも、五感でとらえられない世界も存在しています。それは私たちの心の中にあります。その世界を知ったとき、私たちは新しい視点でこの世界を生きていくことができます。

世界は常に動いています。私たちも空間と時間の動きの中で生きています。私たちはそんな世界の動きの中で個人という身体や心として生きていることを実感しています。でも、私たちはいつまでも生きられるわけではありません。身体は永遠に機能するわけではないので、いつかこの世界の中で人生を終わりにする時が来ます。私たちの人生は突然始まり、突然終わります。それでも、この世界はずっと続いています。もちろん、この世界が終われば、私たちは存在する場所を失うので、人生もそこで終了になります。


そのため、私たちは自分の終わりだけでなく、世界が終わることも恐れています。いままで当たり前に目の前にあることが消えていくことは恐ろしいことです。私たちが突然この世界に生まれた時も、自分の状況が理解できないことへの恐ろしさで涙したのですが、世界で生きていくことに慣れていくと、今度は慣れ親しんだ世界を失うことが恐ろしくなります。私たちは生まれてからこの世界の中でだんだんと個人という立場を確立し、その良し悪しはあるかもしれませんが、基本的にはそれを自分の存在の拠り所にしてきました。そのため、私たちにとって世界はなくてはならない存在になり、それを失うことが自分を失うことのように感じて恐ろしくなるのです。


でも、このように恐ろしさを感じることは正常なことです。もし、死ぬことが恐ろしくないと感じるなら、私たちは生きることに対して懸命に取り組むことがなくなります。死という恐怖があるからこそ、私たちは生きることを大切にしています。そうして私たちはこの世界で個人として生きていることを実感しているのです。この実感が自分が存在することの拠り所になっています。そういった意味では、そう実感させてくれるこの世界も自分そのものです。でも、私たちが終わりを迎えれば、自分も世界も共に消滅します。他の人はまだ世界があるように感じるかもしれませんが、もはや自分で実感することができなくなれば、自分と共に世界はそこで完全に消滅するのです。


これはどういうことなのでしょうか。私たちは五感で世界が在ると感じています。でも、人間としての最期をを迎えると、この五感は機能しなくなります。そのとき、私たちは五感の大元であるひとつの感覚に戻ります。その感覚はとても繊細です。その繊細さが感じることができる世界がそこにあります。それは、いままで五感で感じていた慣れ親しんだ世界ではありません。そこは、まったく何も無い暗黒の世界なのです。厳密にはそれは無ではありません。そこには何も無いと知っている知性があります。暗黒の世界と知性の存在が身体を失った自分にとっての現実的な世界です。それはいままでの色彩豊かな世界とはまったく違っています。


私たちは五感によって色彩豊かな世界がそこにあると感じてきました。実際には、その世界は原子の海でできています。ひとつの原子は原子核とその周りを回っている電子によってできていて、その原子核をソフトボールだとすると、校庭の外側あたりをパチンコ球が回っているスケールだと言われています。つまり、ほとんどが空間だということです。そしてその原子核も電子のような素粒子と呼ばれる粒子の集まりであり、電子や素粒子はその存在が粒子なのか波なのか分からないという性質を持っています。いずれにしてもそれは動きというエネルギーを伴っています。でも、それらは動いていないという場があって初めて動くということができるものです。では、その動いていない場とはどこなのでしょうか。それが形にはなっていないけど存在しているという場です。これが私たちが五感で感じている彩り豊かな世界の基盤となっている静止した暗黒の世界です。私たちの感覚が繊細になると、この基盤としての世界を感じられるようになるのです。


私たちが死んでしまうと、五感はこの繊細な感覚になります。でも、私たちはそれを理解することができません。そのため、また五感を蘇らせて、あの彩り豊かな世界に戻りたいと願います。そして、私たちはその願い通りに世界に再誕生するでしょう。私たちが生きているときに、あの繊細な世界のことを理解していないと、この再誕生を何度でも繰り返すことになります。そして、何度も私たちは五感の世界で、自分という個人や自分を生かしてくれる世界を失うことを恐れて生きていくのです。


彩り豊かな世界と何も無い存在という世界は別々の世界ではありません。それは同時に存在しています。ただ、私たちは五感を通してしか世界を見ようとしないので、そのことに気づきません。もちろんそのことに気がつかなくても、私たちは生きていけます。中にはこの世界で素晴らしい人生を送る人もいるでしょう。でも、私たちはまた何度でもこの世界に戻ってきます。私たちが繊細な世界を知るということは、そういったこの世界への再生が止まるということです。繊細な世界が現実であること知ればそうなります。繊細な世界はそれだけで完結しています。それはひとつであり、存在することであり、静止していて、始まりも終わりもありません。それが現実の自分そのものなのです。


この世界に生きながら、私たちはこの繊細な世界のことを理解することができます。その世界は瞑想して自分の心の中を探すことで見つかります。その見つけた場所は自分の根源であり、根源であるそれは、もはや個人ではありません。それはこの世界のすべてに共通の基盤となった素材そのものです。私たち個人もこの素材で作られています。そのため、私たちが自分の心の中を探すと、この素材に行き着くのです。それは五感を超えたところでしか感じられません。五感で感じられるものではないので、私たちはとても混乱します。そして五感で感じられないものを、何とかして五感で感じようとします。それを言葉にしようとして、愛であるとか、自由であるとか、豊かであると表現します。でも、素材は素材であって、そんな言葉のどれも当てはまりません。それは存在という素材としての自分が、個人を超えたところに在るということを直接理解しなければ分からないことなのです。それを直接理解すれば、どんな言葉も不要になります。


私たち自身が自分とはこの存在だと知ったなら、この世界は五感を拠り所としている世界だと理解することができます。それは存在しないとも言えるし、存在するとも言えます。世界はすでに滅亡していて、私たちはただ夢のなかを生きているのかもしれません。そもそも世界など生まれたことはなくて、私たちが見ている世界はただの幻影なのかもしれません。この世界についてはいろいろな解釈ができるでしょう。でも、その基盤となっている存在の世界は、必ずそこにあって変わることがありません。もし私たちが自分とはそんな存在であって、それが決して変わるものでないと知れば、この世界がどうあろうとも受け入れることができます。この世界が幻だと感じようと、現実であろうと感じようと、どちらでも構わないのです。自分が存在だと知っていれば、この世界を現実のように生きていても何の問題もありません。


私たちが自分の真実を理解すれば、この世界で個人として苦しんだり、悩んだりすることも自由です。苦しみも悩みも存在が許されています。もし、自分が存在だと知っているなら、その苦しみも悩みも存在だと知っています。それはある意味、神聖で美しいものです。それは完全無欠な存在で作られているからです。もし、苦しみや悩みが個人の作り出した感覚だとするなら、個人から見れば、避けたり消し去るべきものに感じるでしょう。私たちが自分の根源の繊細な世界を知れば、このように五感で感じるこの世界の見方が変わります。私たちの視点は個人から存在に変えることができます。それは私たちがいままで通りの個人として変化する世界に埋没して生きていくか、それとも存在として不変の繊細な世界で生きていくかの選択です。これは選択なので、どちらが正しいということではありません。でも、どちらが真実であるかを知る能力は誰にでも備わっていて、それを直接認めることが可能です。私たちは本来そうあるべき視点を得て、その視点から両方の世界を生きることができるのです。 

空風瞑想

空風瞑想は真我実現の瞑想法です。瞑想の中で今まで気づかなかった心の新しい扉を開き、静寂でありながらも存在に満ち溢れ、完全に目覚めている本当の自分をそこに見つけていきます。「私は誰か」の答えを見つけて、そこを自分の拠り所にするとき、新しい人自分としての生が始まっていくでしょう。