真実はすでに告げられている(9)
これも私のカルマなのだ。
実際にこれは私にとって最後のカルマになった。
自分は個人だという固定概念が悟りの境地になることを阻んでいた。
このカルマがあらゆる問題の元凶だったのだ。
それほどのカルマだからこそ、慎重に対処しなければならない。
そのとき私は自分という存在の大きな転換点を迎えていた。
真我を理解し、カルマのサイクルからの脱却できるかどうかの瀬戸際だった。
失敗すれば、私はまた元の不完全な個人に戻ることになる。
瞑想しているとき、私は明らかに真我になっていた。
真我は姿形なく、ただ存在しているという感覚だ。
存在以外には何もなく、何も動きがなく、現実の明晰さだけがある。
私はそのただひとつでいたのだ。
瞑想から覚めていくと、感覚が蘇ってくる。
私はその感覚で個人に戻っていくのを感じた。
私には身体の感覚があり、それが自分だと思える。
それを否定することはできない。
しかし、次第に瞑想をしていなくても真我の感覚が瞑想後にも残るようになった。
どれだけ身体の感覚があっても、その意識の奥には真我が在ると感じるのだ。
瞑想では真我の感覚がさらに深くなり、存在だけになっていった。
そこには誰もいなくなっていた。
何かが大きく変わろうとしていた。
あれほど存在を主張していた個人が私の中で薄れていった。
そして個人を見つけようとしても、見つけられなくなったのだ。
それでも真我だけは失われず、それどころかその存在は消すことができなくなった。
私は自分が個人ではないと認めなければならなかった。
個人の感覚が薄れていっても、私は明らかに存在しているのだ。
つまり、私は個人ではなかったということだ。
ここで私は個人と自分の同一視というカルマを手放すことになった。
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