真実はすでに告げられている(8)
私が慎重に真我を調べているうちに、私は真我にしかなれなくなった。
いままで私は何だったのだろうか。
私は身体や心を持つ名前のある個人だと思っていたのだ。
その個人を自分の中心として生きてきた。
瞑想で私は真我になっていた。
しかし、同時に世界ではその個人でもいた。
私という個人が瞑想をして仏陀の境地を目指してきた。
私が個人でなければ、このことは成し遂げられなかった。
私は個人でいることを簡単には捨てられなかった。
仏陀の境地を得ることで、個人の空白地帯を埋められると思ってきたのだ。
そうして輝かしい完全な個人になるはずだった。
ところが、真我はそんな完全な個人ではなかった。
このことに個人としての私は反発を感じた。
これでは個人を捨て去って、あとから来た真我にすべてを明け渡すようなものだ。
瞑想では私は真我だと理解できる。
しかし、瞑想していないときは、明らかに私は個人でいた。
私はどちらかを選択しなければならなかった。
完全な個人を望むのか、それとも明らかな真我を認めるのか。
この選択には時間がかかった。
真我を信じるために、それをよく理解する必要があったからだ。
真我には姿形がなかった。
このことが最も私を戸惑わせた。
姿形はなかったが、真我は確実に存在してるのだ。
私はこの真我を瞑想で何度も確認してきた。
しかし、個人にしてみれば、姿形がないことに抵抗があった。
個人は姿形を造り上げることで、その存在意義を高めてきたのだ。
何の姿形もないということは、無意味な存在になることでもある。
私は真我を受け入れたかったが、そこには無条件で受け入れられないこの感情があった。
0コメント