真実はすでに告げられている(7)
私はひたすら真我を見出す瞑想に打ち込んだ。
そして、ついに自分の心の中心に真我を見つけたのだ。
はじめは、真我を見つけたという感覚だった。
つまり、真我と私はまだ分離しているように見えた。
-
真我の感覚は瞑想の中で偶発的に起こった。
その感覚の経験を積み重ねていくと、それが毎回の瞑想で安定して起こるようになった。
次に常に真我だけの状態になり、つまりそれは私が真我になっていた。
そしてその状態が失われることはなくなった。
-
瞑想で真我だけになっている状態は現実だった。
それは無理やり想像しているものではなかった。
実際に真我を想像することは不可能だ。
真我には想像するための姿形がないのだ。
-
これは一種の感覚ではあったが、身体の五感とはまったく違ってた。
真我の感覚には種類がなかった。
それはたったひとつだけで、いつも変わらなかった。
そこが私の存在の根底だった。
-
私はそこで私という存在の根底にいたのだ。
それは古の教えでは観察者とか観照者とも呼ばれている。
ただひとりの真我だけがそこにいるだけで他には誰もいなかった。
明らかにひとりだけ、ひとつだけだったのだ。
-
これが仏陀の成し得た悟りの境地なのかと感じた。
これ以上の何も私は感じることができなかった。
すべてが静止していて存在だけがある。
この存在だけが明晰さと共にあるだけだ。
-
言葉にすると簡単な表現になってしまうが、実際にこの真我は何にも増して圧倒的だった。
世界のどんな現実よりも現実で、一切の変化を受け付けない完全な不動がある。
しかし、私はいままでの失敗の経験から、この真我の感覚を念入りに調べた。
慎重に調べなければ、本当にこの真我を信じることができないと思ったのだ。
0コメント