真実はすでに告げられている(5)
それでも私は瞑想を続けていった。
瞑想はこの世界から与えられる心地よさ以上の何かを秘めていると思ったのだ。
そうでなければ、仏陀があれほど熱心に
娯楽以上のものとして悟りを伝えようとしたのか説明がつかない。
それに、もしかすると私は悟りをまったく理解していないかもしれなかったのだ。
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私は自分の中に何らかの障害があって、それが悟ることを阻んでいると感じた。
ある瞑想の師は私に語った、それはカルマが障害になっているのだと。
カルマとは一種の固定概念であり、それはひとつの傾向を頑なに保持していることだ。
簡単に言えば、間違っていることを正しいと信じていて、
その間違いにまったく気づかないでいる状態にいること。
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人の感情のひとつに「恐れ」がある。
「恐れ」は人間が生きていく上で必要な感情だが、それが過ぎると偏執的になる。
自分には常に「恐れ」があり、そのために上手く生きていけないと思うのだ。
「恐れ」があることに重荷を感じて、それをどうにか解消したいと願う。
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この「恐れ」を現実的に解消することはできるだろうか。
瞑想することで、心に圧倒的な平穏がもたらされる。
その平穏によって「恐れ」は解消されていく。
瞑想の平穏はどんな感情をも超えているのだ。
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しかし、それは再び「恐れ」が起こる可能性を否定するものではない。
そのため、「恐れ」が再び現れることを「恐れ」て生きることになるのだ。
「恐れ」が解消されても油断することができず、常に緊張を強いられる。
瞑想で「恐れ」の発生を見張っていなければ、安心することはできない。
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このような感情が私にもあるため、私は仏陀の悟りの境地への道を遮られている状態にあった。
瞑想によってこれらの感情は一時的に解消されるが、永遠に解消されるわけではない。
結局、問題になる感情が解消されても、感情に捕まったままでいる。
私はこの感情の問題をどうにかする必要があった。
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