真実はすでに告げられている(4)
私はその取り組みの中で、世界中にある仏陀の言葉に限界を感じた。
その限界を超えるためには、知識を超えることをしなければならないと感じた。
それが瞑想だった。
仏陀は瞑想をして悟りの境地に至ったのだ。
-
仏陀は様々な修行をしてきたが、最後に取り組んだのが瞑想だ。
同じとこをすれば、仏陀の悟りの境地にたどり着けると思った。
瞑想だけが悟りの境地のために仏陀が実践した唯一の方法なのだ。
私はその伝承を信じることにした。
-
私は瞑想を始めた。
瞑想の師が私を瞑想の世界へと導いてくれた。
瞑想は素晴らしかった。
私は何も考えることのない空の境地を何度も体験した。
-
瞑想の体験によって身体の疲れが解消されたり、心が明るくなったりした。
ストレスにも強くなり、何でもできる気持ちにさえなった。
私はついに仏陀の言葉を超えた境地を知ったような気持ちになった。
それで私は悟りの境地を得たのではないかと思った。
-
しかし、私の人生はこの世界で続けられていった。
いくら瞑想で多幸感があったとしても、現実の人生の厳しさは変わらなかった。
人生では問題が起こり、辛いことや恐ろしいことが起こった。
私は押し寄せるストレスに押しつぶされそうになり、それで判断を間違うこともあった。
-
もちろん、人生では仕事での達成感や満足ももたらされた。
しかし、それは瞑想したから得られたものではない。
物事を熟考し、それをもとにして行動した結果だ。
何も考えない瞑想の空からもたらされた何かではないのだ。
-
私は瞑想で悟りを得ても何も変わらない自分に苛立ちを覚えた。
瞑想では空の平穏があっても、人生は相変わらず終わらない戦場のようだった。
良い結果も悪い結果も日々報告される。
私はそれに一喜一憂して疲れてしまう。
-
この戦場での疲れを癒やすために、私は娯楽を求めた。
娯楽はとても現実的だった。
その娯楽は世界で戦い続ける私を癒やしてくれた。
私はそれに浸ることを受け入れていった。
-
次第に私の中で瞑想の意味が薄れていった。
人生に平穏を得るなら、瞑想よりも娯楽のほうが確実なのだ。
温泉地でのんびり過ごしたり、友人たちと楽しくおしゃべりをしたりすれば、
疲れて凝り固まった心が解放される。
その心地よさは瞑想に勝るものがあった。
0コメント