真実はすでに告げられている(3)
それでは、どうして私は真我を知ろうと思ったのか。
私は真我について何も知らなかった。
真我を知ろうとも思っていなかった。
私は仏陀が瞑想で得た悟りの境地を知りたいと思っていた。
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私は多くの人と同様にこの世界での現実的な仕事に取り組んでいた。
多くの問題に取り組み、ときには厳しい状況に追い込まれた。
そこで絶望したり、思い悩むこともあった。
この状況がずっと続くのかと思うとやりきれない気持ちにもなった。
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人生は辛いことだけではない。
仕事で何かを成し遂げたり、その達成感に浸ったりもしていた。
それはそれで幸福であり、心地良い時間だった。
それでも私はそれが私の求めているすべてだとは思えなかった。
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どれだけ幸福を感じていても、心のどこかに埋まらない部分がある。
それを無視することもできたかもしれない。
実際に、私はそれを長い間無視してきた。
しかし、私はそれが何を意味するのか知りたい気持ちを捨てることができなかった。
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心の中の埋まらないその部分を理解することが、私の人生で取り組むべきものに加わった。
このことを本当に理解できる人がいなかったので、私はただ黙っていた。
それが何かを明確に説明することもできないのだ。
私は自分で気づいたことを少しずつ積み重ねながら、その道を切り開いていくしかなかった。
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仏陀の言葉はこの私の道を切り開いていく一筋の光になった。
仏陀についての本を読みながら、そこに私は何かを感じ取った。
それは言葉の意味というよりは、その言葉の奥にある真意みたいなものだ。
それが何かを知りたくて、私は仏陀の教えを学び続けた。
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仏陀についての教えは世界中に広まっている。
しかし、その真髄は難解で、言葉で理解することが難しい。
さらに、たとえそれを言葉で理解したとしても、仏陀の悟りに至るわけではなかった。
その言葉を暗記して解説できることが、仏陀の悟りではないのだ。
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知識のままの仏陀の悟りは不完全で、決して悟りに届かないもどかしさを含んでいる。
悟った仏陀から発せられた言葉は確かに真実であるが、その言葉を知っても悟りにはならない。
仏陀の悟りの境地になったときに、はじめてその言葉の意味を正確に理解できる。
そのときまで、仏陀の言葉は不完全なままなのだ。
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