空風

東京で「空風瞑想」を教えています。
いままで、私は種々の瞑想法を実践し、指導者の話も聞いてきました。
それでも、納得出来ないところがたくさんあり、
そこを自分で埋めながら作り出したのが「空風瞑想」です。
自分とは誰なのか、
本当の自分とは何かを、
明確に自分自身で理解できるようにすることが、
この瞑想の目的です。
本当の自分とは何かを完全に言葉で説明することはできませんが、
私が瞑想で理解したことをこのブログを通してお伝えしていきます。

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生きているという現実の中で(9)

ただ、私はこの人生に何かが欠けていると感じてはいました。健康で裕福で楽しい毎日を過ごしているとしても、そこには何かが欠けていて、そのために私の人生は、いつまでも完成されないパズルのような物悲しさを含んでいました。しかし、何が欠けているのかは分かりませんでした。私はそれを見つけるために世界中を旅しました。世界の何処かに自分を満足させてくれる何かがあるはずだと思って探し回ったのです。そしてたくさんの旅の経験をしました。旅の経験は心を豊かにし、貴重な景色の記憶を心に留めることができました。しかし、それは探している何かではありませんでした。次に私は知識を得ようとしました。私には何か大切な知識が足りないのではないかと思ったのです。たくさんの本を読み、芸術に親しみ、人の言葉に耳を傾けました。それは自分の品格を形成し、私を賢い人間にしました。しかし、それも探している何かではありませんでした。私は心の豊かさが足りないのではないかと考えました。そして、心の中を喜びと感謝と謙虚さで満たそうとしました。心の中から悲しみや憎しみ、高慢さを排除していきました。私は徳の高い人間になり、そこで心の豊かさを実感しました。しかし、それすら探している何かではありませんでした。私は自由が足りないのではないかと考えました。私は自由な発想で、新しい物事を創造していきました。それは心を達成感と喜びで高ぶらせ、身も心も自由に開放された感じが起こりました。何にもとらわれずに生きる自分がとても誇らしくなりました。しかし、それも探している何かではありませんでした。

生きているという現実の中で(7)

たとえ死んですべて失って、また生まれ変わったとしても、私は、それはそれで、また人生を楽しめる新しいチャンスが与えられたと喜びました。何度でも人生を楽しめることは、きっと神が与えてくれた贈り物なんだと思いました。それはとても納得できる人生に対する考え方です。そうして人生を得られることに反対の人は誰もいません。人生を生きるより良い方法があると聞いたなら、私はそれを求めて世界中を旅しました。誰もが当たり前のようにそうしています。そうであるなら、自分がそうしない理由が見当たりません。しかし、それでどれだけ素晴らしい人生を生きようとも、現実に私は生まれ変わりの輪の中に閉じ込められたままであることは変わりませんでした。この輪から出る方法も分かりませんし、そこから出ることに、どれだけの価値があるかも知らないままです。この輪から出ようとすることは、ある意味、狂った行動にも思えました。なぜ、この慣れ親しんだ環境を捨て去るようなことをするのか、私は理解することなどできませんでした。実際に、輪の中にいることはとても安心できることでした。いつもの変わりない毎日が続くとしても、何の不満も感じず、むしろ、そこにいつもの日常があることを望んでいました。私はそこに無理やり閉じ込められているという感覚もありません。そんな私からすれば、そこから逃れようとすることは理解に苦しむ考え方です。人生には楽しいことがあり、悲しいことさえも楽しいことの前触れだと思えば、私は喜んでこの世界を受け入れることができたのです。