空風

東京で「空風瞑想」を教えています。
いままで、私は種々の瞑想法を実践し、指導者の話も聞いてきました。
それでも、納得出来ないところがたくさんあり、
そこを自分で埋めながら作り出したのが「空風瞑想」です。
自分とは誰なのか、
本当の自分とは何かを、
明確に自分自身で理解できるようにすることが、
この瞑想の目的です。
本当の自分とは何かを完全に言葉で説明することはできませんが、
私が瞑想で理解したことをこのブログを通してお伝えしていきます。

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ラマナ・サットサン 5月26日

ラマナ・サットサンではラマナが提唱してきた「私は誰か」をテーマに話をするようにしています。それとは違う話題が大半を占めたとしても、その中のどこかに「私は誰か」という話が少しでもあれば、それでサットサンの役割が果たせたと納得しています。実際には、「私は誰か」について話をしても、それでその場で自分が誰かが分かるわけではありません。しかし、何かの気づきや新しい視点を得ることは出来るものです。サットサンはそれでいいのかなと。そんなわけで、千駄ヶ谷でのサットサンはちょうど今回が11回目。来月のサットサンで、ちょうど1周年です。誰も参加しなくなったら止めようと思いつつ、気がついたら毎月の開催でここまで続けていました。このサットサンはあえて特別なイベント感は排除しています。ノープランで始まり、私を含めた参加者が自然に話をすすめて内容を積み上げていきます。話がどこにいくのかハラハラするときもありますが、それも興味深いものです。もちろん、参加者は何かしなければならないこともなく、ずっと黙っていても構いません。それがその人のサットサンであるなら。いまでも、誰もサットサンに参加しなくなったら止めようと思っています。その代り、誰かがラマナの言葉をもっと理解したいと参加するなら続けていきます。ラマナが伝えたかったことを、私がそのすべてを代弁できるとは思っていませんが、私の知りうる限りのことは伝えていこうと思っています。いつもサットサンの最後に参加者全員で瞑想をするのですが、それがなかなかいい感じで、私の楽しみのひとつになっています。あの瞑想にはとても深い意味があるのです。。。

愛を求めずにはいられない(4)

私は不完全な状態でこの世界に生まれてきました。不完全であるがゆえに、私は世界に何かを求めました。そうして私は世界から様々なものを手に入れましたが、その中でもお気に入りは愛するという感情でした。それで、私はいつも愛することのできる相手を探していました。そして、愛せると思った相手を見つけて、その相手にに愛の感情を発現させました。それは私を特別な感覚で満たしてくれました。私はこの感覚を世界で最も素晴らしいものだと感じました。もちろん、私が誰かを愛したとき、それで相手から愛されるときもあれば、そうでないこともありました。その場合、私はその愛を忘れる必要がありました。幸運なことに、それが愛し愛されることになっても、時間とともにそれが変わっていって、ある日、愛の形が終わることもありました。愛が終わることは、楽しい出来事ではありません。そうなると、私は手に入れたと思った素晴らしい感情を失って、心に深いダメージを負いました。そんな経験をするたびに、私はもっと確かで永遠に続く愛を探し求めるようになりました。しかし、どんな愛も気まぐれで、自分の思い描くような安定に落ち着くことはありませんでした。私は愛によってあの幸福の高揚を何度も感じましたが、それはいつも一時のことであり、最後にはそれが色あせていく姿を黙って見つめることになりました。私は愛が失われことなく完全になることが可能なのか疑問に思い始めました。愛が成就したときにはその幸福感によって、確かに自分が完全になった気がします。しかし、それを永遠のものにはできません。私は、決して離れることなく、永遠につながることができ、色あせることもなく、信頼し続けることができる愛が欲しかったのです。それからも、私は何度も愛を失ってきました。それでも、私の望む永遠の愛が、どこかに存在していると信じる気持ちを持ち続けました。私が不完全であるということは、ある意味、それを完全にしてくれる愛を見つけられるということでもあります。きっと、それを見つけるために、いまの私は不完全なのだとそう自分を納得させることにしました。

愛を求めずにはいられない(3)

私は愛するという感情は、基本的に良いものだと思っています。もし、それがお互いに無条件で与え合うものなら、そこに相手との美しいつながりが紡ぎ出されていきます。しかし、愛することは強い感情であるため、ややもするとそれが強い反作用を起こすことがあります。それは愛することに条件がついているときに起こります。もちろん条件がついているからと言って、私はそれが愛として劣っているとは思いません。その条件を守っているときはとても良好に愛は機能しています。しかし、どちらかのその条件が変わってくると、愛という名のもとに、愛とはまったく違った感情が生まれます。愛することの条件が変わるとお互いの理解に微妙なずれが生じ、そこで愛は憎しみや嫉妬といった感情へと変容していくのです。それは条件が変わることにおいてだけでなく、強すぎる愛においても起こりました。強すぎる愛はひとつ間違うと、修復不能な愛とは全く違うものを生み出してしまうのです。そこに妄想が入り込んで、理想化や束縛といったことが愛に取って代わられます。私たちの愛する能力は基本的に良いものです。しかし、突然、愛がその名のもとに、真反対のものに変質することを経験すると、ある意味、それは自分がいつも問題を引き起こす火種をその手の中に抱えていると知ることになります。私は愛によってそんな苦い経験をしました。そして愛することを躊躇するようになりました。そういった愛の関係が歪んでいくことを恐れて、誰かからの愛にも疑いを感じたり、それを拒んだりしました。愛とは単純に自分に欠けている何かを補いたいために生まれた感情ですが、実際に愛することが自分を壊していくという正反対の変容も起こすため、私はそこ内包されている一種の複雑さを理解することができずにいました。それゆえに、愛が調和して機能しているときは、確かに美しく輝いていますが、それだけでない影をいつもその裏側に持っていて、そこに私は愛に対して危険であるとか、騙されるかもしれないという匂いを感じ取って、完全に信頼を置くことができなくなっていたのです。そう知っていても、私は愛を信頼していて、誰かを愛したいと思っていました。私は愛に依存したい気持を、完全に消し去ることはできませんでした。それしか、自分を完全にしてくれるものを知りませんし、愛は自分という存在が持つ美しい性質だと信じたかったのです。

愛を求めずにはいられない(2)

私が誰かを愛するのは、その人とつながって完全になりたいからでした。そこで私が感じる幸福感は、その完全性の証明になります。そのため、もし私に幸福感がなければ、それは自分が不完全だということを証明していると感じてしまいます。私は自分が不完全であることに満足していませんでした。そうして満たされないままでいることは苦しみでした。それで、私は完全になるために、誰かとの強い結びつきを求めました。強い結びつきはより強い愛を生み出し、それによって自分が完全になり、幸福になると信じていたからです。そうして私はより強い愛を求めました。しかし、それは良いことばかりではありませんでした。愛することは完全性と真逆の方に向かうことがあったのです。いま強く愛している人がいるのに、自分が完全ではないと思えることがあります。その幸福感にも翳りがあります。それは自分に合った愛ではないからかもしれないと考えました。私はそんな気持ちを打ち消すようにもっと強く愛してもみましたが、どれだけ愛を強めていっても、自分が完全だと思える状態にはなりませんでした。それは幸福感の欠如や苦痛、空虚感によって現れました。愛が完全であるなら、そんなことは起こらないはずです。そこで、この不完全な感覚は、相手の愛が原因かもしれないと考えました。二人の愛の何かがずれているために、満たされないのだと思ったのです。そして、相手の愛を自分に合うように変えようとしました。しかし、それは相手との気持ちの軋轢を生むだけでした。私のしたことは自分の完全性を修復するはずが、さらにそれを壊すだけの結果になりました。この愛で自分が完全性を取り戻せないのであれば、私は違う愛を探すしかないと思いました。他の誰かなら、もしかすると、その愛で自分を完全にしてくれるのはずだと思ったのです。もちろん、そんな独りよがりの私の思いに沿って、私を愛し完全にしてくれる相手など、この世界には存在しませんでした。それでも、自分を幸せで完全にしてくれる理想の愛を求めて、世界中を探し続けるしか、私には選択肢がありませんでした。