自分の壁を乗り越えたとき:瞑想哲学

私たちの人生の壁になっていることは、人生で何をすればいいか分からないということです。その何かとは自分を知るということです。でも、自分を知ることが果たして人生の目的だと信じていいのか悩みます。悩んでいる間に、私たちは数千年の歳月を費やしていきます。

私たちは人生に行き詰まることがあります。まるでそこに壁があるかのように、そこからどうしても動けなくなります。私たちはそこで壁に阻まれたままでいるか、壁を超えていくのかの選択をします。ただ、壁に阻まれたままでいても、私たちは生きていけます。それが人としての負けではありません。むしろ賢い選択かもしれません。無理して壁を超えていくことはリスクがあることであり、壁の手前で生きていくことは安全で平和な人生を生きるということです。そう選択することは間違ではなく、見方によっては正しい選択でもあります。


でも、目の前の壁をどうしても超えたくなる人がいます。それはリスクがあるため、誰かに迷惑をかけたり、心配させたりするかもしれません。もちろん自分の安全な人生を壊してしまう危険性もあります。それでもその人はそこに壁があって進めないことに納得できません。その人には二通りの人生が起こります。ひとつは壁から転落して大失敗する人生です。大怪我をするか、生命すら失うかもしれません。もし、二度と立ち直れないようなダメージを負ったなら、その後の人生を敗者として生きていきます。きっと無謀なことに挑戦した無責任な人間という烙印を押されるでしょう。もうひとつは壁を乗り越える人生です。絶対に無理だと思われていたことをその人が成し遂げたなら、壁の前でとどまっていた人々の評価も変わります。その挑戦者のお陰で、この壁を超えることができると分かります。壁は恐ろしい未知の領域ではなく、すでに挑戦者によってルートが開拓された安全な道になっています。挑戦者は讃えられ、後世の人々にまで語り継がれていくことでしょう。


さて、私たちにとっての人生の壁とは何でしょうか。私たちのほとんどが人生に行き詰まっています。私たちは人生で何をしたらいいのかよく分からなくなっているのです。このことが壁のように立ちふさがっています。本来、私たちの人生の目的は明確でした。でも、この数千年の間に、その目的をすっかり見失ってしまいました。私たちは目的が分からなくなったことに少し焦って、人生で何かをしなければと考えます。私たちは壁の手前で、地面に落ちている何かを探すようにうつむいて歩き始めます。そしてそこに落ちているものを拾っては懐に入れながら歩き回ります。私たちがうつむいている理由は壁を見たくないからです。そこに壁があると分かっていても、まるで壁などないように振る舞います。誰かがうっかり顔を上げて壁に気がついてしまうと、余計なものを見つけてしまった残念な人だという目で見られます。


私たちにとっての壁とは自分が誰だかわからないということです。それが私たちの見失っている人生の目的です。そして自分が誰だか知るべきなのか、知らないほうがいいのか考えあぐねています。目の前に壁がありますが、誰もその壁を越えようとはしていません。その壁の向うに本当の自分がいるような気がしますが、その壁を超えて行くことが正しいことなのか、愚かなことなのかよく分かりません。よく分からないから、そこに壁があることを無視しています。無視していれば、そのことに頭を悩ます必要はありません。ただ、そう無視している限り、いつまでたっても壁はなくなりません。私たちは自分が誰かを知ることなく、人生の目的を見失ったまま、うつむいて安全に生きているだけです。私たちはそうしてすでに数千年の人生を過ごしてきました。


壁の前で歩き回っているうちに、私たちのポケットは経験でいっぱいになり、ずっしりと重たくなってきました。もちろんポケットが重くなっても壁を超えるための何の準備にもなりません。むしろ、ポケットの重みが壁を超えていく気持ちを失わせます。ある日、私たちは決心して、ポケットを空にし、顔を上げて壁を見上げ、そして壁に触れます。壁を触れるということは、私たちが自分のことを何も知らないと認めることです。私たちはその事実をずっと無視してきました。そして、いま自分を知りたいという抑えきれない気持ちが壁を登らせます。ついに数千年の眠りから目覚める時が来ます。


私たちがその壁を登り始めたとしても、壁はとても高くて、どこまで登れば超えられるのか分かりません。私たちは途中で登ることを止めたくなります。うつむいて生きていた頃を懐かしく思い出します。それがどんな生き方であれ、少なくともいまの状況よりは安全でした。私たちが壁を登らなければ、壁の前でうつむいてぶつぶつと独り言を言いながらでも、平和な人生を生きてこられたのです。いまの私たちは小さな虫のように壁にへばりつきながら、先の見えない状況に顔を青くしています。自分がとても愚かな選択をしたのではないかと悔やみ始めます。巨大な壁に取り付いている小さな自分がとても滑稽に思えてきます。もう登ることをやめて、地上でうつむいて生きていくことに戻りたくなります。それが惨めな姿だとしても、少なくともいまの状況よりはマシなはずだと思うのです。


登るのか降りるのか、私たちは止まって考えますが、そんな私たちに壁は静かに黙っているだけです。登り続けるように励ますことも、降りてもいいと許すこともありません。私たちは自由にどちらでも選択することができます。降りたからといって罰が与えられるわけでもなく、昇り続けたからといって誰かから褒められるわけでもありません。でも、私たちが知りたいことは、登っていった先に何があるかということです。降りてしまえば、元の人生に戻るだけだと知っています。最終的に、私たちの好奇心が勝り、登ることを選択します。そして、ついにその壁を登り切ります。


壁を超えて分かることは、そこに壁などなかっっということです。壁を超えた向こうから、元いた場所を見ると、人々がうつむいて歩き回っています。私たちは壁など無いんだとみんなに向かって叫びます。でも、その叫びは人々の耳に届きません。何かに感づいた人が驚いた表情で少しだけ壁の方に目を上げるだけです。私たちが壁を超えたときに何が起こったのでしょうか。私たちはその壁そのものになったのです。そして私たちは元々壁などなかったと気がつきます。それは私たちの行く手を遮るものではなく、人としてのゴールそのものだったのです。そのことを私たちは知りませんでした。そのため、壁を危険なものとして避けてきました。私たちはゴールを目前にして、いたずらに時間を費やしていたのです。そのことを人々に伝えようとしても、壁は口を持たないため叫ぶことができません。でも、壁としてそこにいることはできます。壁にできることは、人々が壁を登ろうと選択するまで、その近くに存在し続けることだけです。

空風瞑想

空風瞑想は忘れてしまった本当の自分を取り戻す瞑想法です。瞑想の中で、今まで気が付かなかった心の新しい扉を開き、静寂でありながらも存在に満ち溢れ、完全に目覚めている本当の自分をそこに見つけます。それを自分の拠り所にすることで、人はその真実と共に蘇り、新しい自分として生きることを始めていきます。