自分探しは簡単で難しい:瞑想哲学

自分を見つけることは簡単なことなのですが、それを自分で難しいことにしています。それは私たちが自分について大きな誤解をしているためです。この誤解がとてつもなく強力なため、私たちは自分を見つけることに苦労します。私たちがその苦労のあとに自分を見つけたなら、それは完璧で、そこですべてが正されて完全になります。

私たちの人生の使命は「自分を見つける」ことです。私たちはそのために人生でいろいろなことをします。それは簡単なこともあれば、困難なこともあります。困難なことをやり遂げた時には大きな達成感があります。きっと自分は大きなことをやり遂げたと実感するでしょう。簡単にできることは、すぐに実現できてしまうため達成感がありません。私たちはそんな経験をすぐに忘れてしまいます。


私たちが人生で経験することの問題点は、困難なことであれ簡単なことであれ、どんな経験をしても自分を見つけることができないということです。もしかすると、私たちは困難なことに挑戦して成功するかもしれません。その挑戦は成功しますが、自分を見つけるという使命は果たせないままです。その事実を知ると、私たちはもっと困難なことに挑戦しなければならないと感じます。自分を見つけられないのは困難度が低いからであり、さらに困難なことを達成すれば、自分自身を見つけられるはずだと思うのです。私たちがそれに挑戦して成功したとき、何かしらの気分の高揚を感じるかもしれません。でも、それは自分を見つけることではないため、高揚感の喪失とともに、私たちはまた振り出しに戻ります。


私たちは「自分を見つける」という簡単な使命にとても苦労しています。そのために人間には約八十年という寿命が与えられているにもかかわらず、ほとんどの場合、時間切れで幕を閉じます。たとえ、この世界で私たちが大きな成功を収めたとしたとしても、例外なく人生の使命遂行に失敗した人間になります。そして再び同じ人生を生きるために地球へと戻ってきます。私たちは人生の経験を通して自分を見つけようとします。考えること、知識を増やすこと、行動して経験することなど、そういった経験が自分を見つけることになると思っています。でも、そこには自分はいません。そこを探す限り、むしろ自分から遠ざかっていきます。


自分を見つけることの「自分」とは何なのでしょうか。それが分からなければ、私たちはいつまでたっても「自分を見つける」ことができません。私たちはいつでも自分でいます。それは当たり前のことです。でも、私たちはまるで自分を失っているかのように行動します。私たちが何かを手に入れたいと思うのは、自分を失っていると思い込んでいるからに他なりません。欠けている自分に何かを付け足して完成させようとしているのです。「自分」とは知識や経験の塊ではありません。その塊が自分だとするなら、私たちは際限なく大きくなっていきます。そして、どれだけ大きくなっても、私たちは自分を見失ったままです。


「自分」とは知識や経験がなくても、当たり前にそこにいる存在です。でも、それは知識や経験のようにはっきりとしていません。その「自分」を文章にしたり、それに触れたりすることはできません。そのため、「自分」はどうしてもあやふやになります。なぜ、「自分」はそんなとらえどころのない存在なのでしょうか。それは「自分」とは対象ではなく、主体そのものだからです。私たちは主体を見ることも触れることもできません。それはひとつであるため、分離していることで経験できる対象物たちとは異なるからです。「自分」とは無であると言われたこともあります。でも、それは確かに存在するので、無ではありません。むしろ有であると言えます。有であるなら、対象化できる物事であるはずですが、それが主体であるため対象化できません。


「自分」とはそんなややこしい状況に置かれています。そのため、「自分を見つけること」がとても困難になっています。本来、簡単であるはずのことが、とんでもなく難しいことになっているのです。でも、自分を見つけた人たちは「自分を見つけること」など、とても簡単なことだと言います。その人が自分を見つけるために計り知れない苦労をしたとしても、それは簡単なことだったと言うのです。答えを知ってしまえば、それはいままでの苦労がバカバカしく思えるほどに簡単だと知るからです。そのため、自分を知った人は、自分を知るために努力する必要はないし、自分がそこにいると思えばそういうことなんだと、さも簡単そうに話をします。もし、私たちがこの人の言うことを真に受けたなら、「自分を知ること」は不可能になります。私たちは自分を知ることは簡単で価値の無いものだと判断して、その取り組みを止めてしまうからです。


私たちは熱意を持って、「自分」を探さなければなりません。それが最終的に無駄なことだったと知るとしてもです。そんな人生のドタバタ劇の最後に「自分」とは誰なのかを知った人だけが、人生の使命を果たした人になります。「自分」はすぐそこにいます。それを瞑想の中で認識することを絶え間なく続けて、それがあやふやなことではなく、確信に変わったとき、私たちは自分を知ったことに気が付きます。そこに一時的な高揚感や幻想はありません。それは信じられないほど穏やかで絶対に消えることがない現実として現れます。


この「自分」を知ったとき、私たちはどうなるのでしょうか。私たちの身体も心も何も変わりません。今までどおり、知識や経験を追い求めることすらするでしょう。「自分」を知る前も知ったあとも、私たちには何の変化もありません。性格が良くなることもないし、幸福なことが増えることもありません。そんな状態に、私たちは「自分」を知ることに意味はあるのかと自らに問い掛けます。そこに意味はありません。もし意味があったなら、それは「自分」ではなく、世界で経験した対象物としての何かになってしまいます。「自分を見つけること」は自分が主体であるということを知っただけであり、それは意味が無いことでなければならないのです。


なぜ私たちは人生を賭けて、そこで苦労をして、こんな意味のないことを成し遂げなければならないのでしょうか。それは、いままでの自分が誤解に基づいている自分だからです。間違ったものを自分だと思っていれば、そこからすべてがズレてきます。自分を知るとは、そのズレを正して、自然な状態の自分に戻すことです。このことは「自分」とは誰なのかを知ってこそ可能になります。間違った自分を否定したり、捨て去ったりするだけでは不完全です。むしろ、不完全な自分を捨て去ることなく、本当の自分を探した方が見つけやすいでしょう。でも、このズレを正したとき、私たちは最初から何のズレもなかったと知るのです。まるですごく遠回りをして目的地に着いた感じです。


そして、私たちは自分が完全であることを知ります。この自分が完全であるという確信が大切です。そう知ったとしても、世界は変わりません。幸福も訪れないし、相変わらず忘れっぽい性格の個人的な自分がそこにいます。それでも私たちは完全です。完全な自分として、何ひとつ変わらない個人的な自分として、世界の知識や経験を求めて生きていきます。ただ、私たちの人生が終わって、個人的な自分の身体や心が失われたとしても、私たちは自分を失うことがありません。この自分を失わないということで、二度と人間としての人生を再生することが必要なくなります。そのとき、私たちは人生の使命を果たしたことに気がつくでしょう。

空風瞑想

空風瞑想は忘れてしまった本当の自分を取り戻す瞑想法です。瞑想の中で、今まで気が付かなかった心の新しい扉を開き、静寂でありながらも存在に満ち溢れ、完全に目覚めている本当の自分をそこに見つけていきます。そこを自分の拠り所にするとき、新しい自分の人生が始まっていきます。