経験の積み重ねと削ぎ落とし:瞑想哲学

私たちは人生で経験を重ねて自分を形作っていく。だが、それは際限のない作業であり、いつまでも自分は不完全なままだ。しかも、死ぬときにすべて手放さなければならない。瞑想で経験を削ぎ落としていくと、小さな一点の自分に出会える。この自分に出会ったとき、世界での経験は完全になる。

私たちは人生を生きている限り、経験を重ねていきます。毎日、何かを経験し、それを自分の経験として記憶します。その記憶の積み重ねが、自分という個人を形成していきます。この個人はこの人生の経験の積み重ねそのものです。私たちはこの幾層にも重なった経験の塊が自分だと思っています。


あなたはどんな人ですかと誰かに尋ねられたら、私たちは自分の経験について話をするでしょう。きっと自分が今まで何をして、どう生きてきたか説明します。自分について話をするときに、どういうことをしてきた人間かを説明することは当たり前のことです。それで自分がどういう人間かが相手に伝わります。尋ねた人もその答えに満足するでしょう。でも、それは本当に自分自身を説明しているでしょうか。それは自分の経験を話していることであり、自分そのものについて話しているわけではありません。


私たちは自分を大切にしていますから、自分を高めたいと思います。自分を高めるために、私たちはいろいろな経験を積み重ねていきます。それは成功も失敗もあるでしょう。でも、その積み重ねた経験によって、自分の経験則を手に入れます。そして、その量が増えるほど、自分が高まった気になります。実際に、経験が豊かであれば、他の人よりもたくさんの物事を知ることになり、いろいろな場面でどうすればいいか分かります。他の知識が不足している人や上手く立ち回れない人を見ると、経験が足りないからだと思うでしょう。そういう人を見るたびに、経験を積んで、人間として向上することが、自分を確かな存在にしていくのだと感じます。


私たちは人生でどんな知識を手にれたらいいのか、あるいはどんな生き方をしたらいいのかを考えます。私たちはどんな人間になりたいかを考えて、そうなるためにはどんな経験が必要かを選択します。私たちが宇宙の知識をすべて知ることはできませんし、人間としてのすべての生き方をこの人生で経験することはできないからです。世界で経験できることは無限にありますが、私たちひとりの人生は時間的にも空間的にも限られています。そのため、ある程度、どんな自分になりたいかを絞り込まなければなりません。私たちはこの人生でどんな自分になりたいのかの将来像を描いて、そこに向かって経験を積み上げようとします。


そうして私たちは自分を形作っていきます。でも、それには完成というものがありません。生きている限り、経験は無限にあります。付け加えられる何かがある限り、完全に満足できる自分になれないのです。いったいどこまで自分を追求していけばいいのでしょうか。私たちは、どこまで行っても、その先には道があるような、そんな途方も無い旅をしているように感じます。どこに自分の完成というゴールがあるのでしょうか。結局、私たちは死ぬ間際まで、経験を積み上げていきます。死ぬ間際に、私たちの経験の塊は最大になります。そして死ぬときにそのすべてを手放します。私たちは死ぬことで、もともとの小さな何も知らない点のような自分に戻ります。


確かに私たちが生きている時には経験が必要でした。経験して知っていることは、人生を生きる上で、とても役に立ちます。でも、死んでしまったら、その経験はすべて消えます。この世界から自分が消えたとき、その経験も消えてしまうのです。自分という存在がこの世界から消えれば、そんな経験は何の役にも立ちません。自分から世界がなくなってしまうのですから、それは当たり前のことです。では、私たちはこの人生の間、何をしてきたのでしょうか。ただ経験をして、経験の塊になり、そして最後にはすべてを手放します。結局、経験の中に自分はいなかったのです。


私たちは自分に経験を付け加えようとしてきました。そうして自分を確かな存在にしようとしてきました。でも、自分を確かな存在にするためには、経験を削ぎ落とす必要があります。それは自分が考えていた自分の作り方とはまるで反対のことです。経験を削ぎ落とすことで、本当の自分が見えてきます。経験をそぎ落とすとはどういうことなのでしょうか。それは何もしないでじっとしていることではありません。人生では経験が起こり続けます。それに関われば、経験が増えていきます。私たちはどうすればいいのでしょうか。私たちはそれで自分を形作ろうとしなければいいのです。それが経験を削ぎ落としていくということになります。


瞑想して、自分の中心に向かって進んでいくと、ひとつの小さな点になります。それが確かな自分です。経験を積み重ねることでは完成しなかった、完全な自分がそこにいます。私たちがその点になったとき、自分が完成します。自分が完成したなら、この身体と心で経験することはすべて完全になります。なぜなら、完全な自分がすることは、すべて完全だからです。それが失敗するとか成功するとかは関係ありません。それは身体や心における相対的な判断です。完全な自分は、その判断に影響を受けない場所にいます。完全な自分を知ることは身体や心に経験を付け加えることではありません。それは既にそう在ることであり、そう在ることが一度もなかったと知ることです。積み重ねられた世界での経験とはまったく違うことです。


この自分であることは世界ではまったく役に立ちません。それは世界での経験ではないからです。それでも、私たちは世界を生きながら、この自分の真実を知らなければなりません。そうしなければ、すべての経験は不完全であり、同時に世界自体も不完全なままです。いつまでたっても、私たちは世界の経験を際限なく取り込んでいくことになるでしょう。私たちは世界に対して、無防備になって、何の見返りもなく、自分を見つける必要があります。そうすれば心の中で何かが起こります。私たちが世界での経験を自分にすることを止めたとき、そこで世界の経験はすべて自分だったと気がつくでしょう。

空風瞑想

空風瞑想は忘れてしまった本当の自分を取り戻す瞑想法です。瞑想の中で、今まで気が付かなかった心の新しい扉を開き、静寂でありながらも存在に満ち溢れ、完全に目覚めている本当の自分をそこに見つけていきます。そこを自分の拠り所にするとき、新しい自分の人生が始まっていきます。