神と悪魔の戦い:瞑想哲学

悪魔との戦いは私たちを悩ませる。その戦いは延々と続いていく。私たちが個人的エゴを捨て去るとき、私たちは神になる。私たちが神になったとき、悪魔は神で作られていると知る。そう知られたとき、悪魔は存在できなくなる。そして悪魔との戦いは終わりを告げる。

悪魔とは何なのでしょうか。私たちは人間を傷めつけ不幸にする悪魔を恐れます。悪魔は人間たちを傷めつけて不幸にすることに喜びを感じます。悪魔は人が不幸になることが喜びであり、私たち人間はそんな悪魔を喜ばせたくはありません。悪魔はなぜ人を不幸にしたいのでしょうか。悪魔は人不幸にして、優越感に浸ります。人間を不幸にする力があることを誇示して、それで満足します。


悪魔はその力で持って人間を圧倒したり、人間の猜疑心を煽ったり、その優しさに付け入ったりして、人を不幸へと進ませます。悪魔にとっては、そうして人間が不幸になっていく過程が楽しくて仕方ありません。でも、人間は悪魔に操られてばかりではありません。時には悪魔に反撃をして、その策略を見破り、自分を取り戻します。私たちはそうして悪魔との戦いを続けています。私たちが不幸になれば、悪魔の勝ちであり、幸福になれば人間の勝ちです。でも、その勝利はどちらがそうなっても、それで終わりではありません。この戦いは悪魔と人間がいる限り、いつまでも続いていきます。


ただ、私たちは悪魔を見たことがありません。悪魔は恐ろしい顔つきをした化物だと想像していますが、そんな悪魔はどこにもいません。でも、私たちはその存在を感じています。見えなくても、どこかの陰から私たちを見張っていて、不幸に落とす計画を立てている姿が想像できます。悪魔は人間の心の中にいます。それは私たちが持っている個人的エゴです。個人的エゴは自分の幸福を優先し、そのために誰かが不幸になるとしても仕方がないと思っています。これが悪魔の正体です。


人間の個人的エゴは人間自体ですから、私たち自体が悪魔だということです。私たちはずっと人間のエゴと戦ってきたということになります。恐ろしい顔をした悪魔などどこにもいなかったのです。ただ人間の個人的エゴが、ときに恐ろしい姿をした怪物に見えたのです。私たちはそんなことを知らず、怪物のような悪魔という存在ががいると信じています。これは個人的エゴと個人的エゴの戦いです。でも、自分以外の誰かがいる限り、その個人的エゴの中には悪魔が潜んでいて、この悪魔との戦いが終わることがありません。


私たちは自分を不幸にする相手を悪魔だといい、不幸にした誰かからは悪魔と呼ばれます。誰もが個人的エゴなので、自分は悪魔なんかではないと思っていても、いつ悪魔呼ばわりされないとも限りません。どれだけ気をつけていても、自分の幸福の陰には、知らずに不幸になっている人がいるかもしれないのです。そして自分が不幸になっているときに、そのために幸福になっている人もいます。人間と悪魔は、こうして心の中で入れ替わりながら、戦いに明け暮れています。この戦いはとても疲れることです。私たちがこの戦いに疲れ果てると、神に助けを求めます。私たちは神に自分を悪魔から救って欲しいと頼みます。


神はこの状況をよく知っています。この解決策は人間が個人的エゴを捨てることです。神はこの解決策を数限りなく人間たちに提唱してきました。でも、人間はそれに従いませんでした。なぜなら、個人的エゴを捨て去ったなら、自分がどこにもいなくなってしまうと思うからです。そうなったら、私たちは自分がもぬけの殻になり、何も考えず虚ろに生きていくのではないかと想像します。そんな自分にはなりたくありません。私たちは悪魔に打ち勝って幸福になりたいと思って生きているのです。その希望を失ったら、自分が自分でなくなってしまいます。いくら神の解決策と言っても、私たちは素直に受け入れることができませんでした。


人間の心の中に潜む悪魔はこの人間の決定に大喜びです。そして人間を不幸にしていくという仕事で大忙しです。悪魔はこの仕事が大好きなので、喜々として働きます。私たち人間はどんどん疲れ果てていきます。この戦いに疲れ果てた誰かが、神の解決策を受け入れることにします。ついに個人的エゴを捨て去ることにしたのです。もうそれしか悪魔に太刀打ちする方法がないというところまで追い込まれました。


悪魔は大慌てです。なんとかしてそんなことはさせないように、あの手この手で個人エゴでいさせようとします。悪魔は人間に個人的エゴでなくなってしまえば、幸福を手にすることはできないと耳元でささやきます。もし、個人的エゴがなくなってしまえば悪魔は存在できません。人間が悪魔がいると思えば、悪魔は存在することができます。悪魔は個人的エゴの中に潜む者として存在し続けたいのです。悪魔は神が言っていることなどまやかしで、信じる必要などないと言いはります。


それでも、その人は悪魔の言葉を振りきって、個人的エゴを捨て去ります。そしてその人は神になります。人間は個人的エゴを捨てると神なるのです。神とは誰でしょうか。神とはこの世界のすべての素材となっているものです。神は素材となって、この世界のすべてを存在させています。もちろん個人的エゴも神を素材として作られていました。そのため、人間が個人的エゴを捨て去ると、神に戻ることになるのです。私たちは神というこの世界を存在させている素材になります。その時、個人的エゴも悪魔もすべて神を素材としていることが分かります。個人的エゴやその悪魔の中には神が宿っているのです。この事実は悪魔が一番知りたくなかったことです。悪魔は根っからの邪悪な存在でいたかったのです。


人が個人的エゴを捨て去ると神になり、そして個人的エゴや悪魔が神でできていることを知ります。神にとって、個人的エゴや悪魔は排除する対象ではありません。神は個人的エゴや悪魔が存在することを許容しています。だから、この世界に個人的エゴも悪魔も存在できるのです。個人的エゴを捨てて神となった自分からは、そんな景色が見えてきます。悪魔はそんな神と戦えるはずがありません。私たちと悪魔との戦いは、そこで永遠に終わりを告げます。


それでも個人的エゴや悪魔は戦いを止めないかもしれません。そうだとしても自分は神として存在しています。そして個人的エゴではないので、人として幸福か不幸かは問題ではなくなっています。悪魔は何度も幸せになろうと声をかけてきます。悪魔にとっては人間に幸せか不幸かの判断があることで存在できます。このとき、私たちは神として在り続けられるかが試されます。


私たちはまだ神として不安定な場所にいます。もし、悪魔が生き延びるために人間を個人的エゴに戻そうとするなら、その不安定さを突いてくるでしょう。ただ、人間が神として存在し続けられるのであれば、悪魔が戦おうとしてもその相手がいません。しかも悪魔は自分が神でつくられているという事実を見抜かれているので、ずっと悪魔としていることが難しくなります。神が悪魔と戦うことはありません。なぜなら悪魔はその中身が神だからです。自分自身と戦うことはできません。


私たちは悪魔と戦って勝つ必要はありません。私たちが悪魔と戦おうとすれば、その存在を認めることになってしまい、悪魔はさらに強力になっていくでしょう。そこには際限のない不毛な戦いがあるだけです。私たちが個人的エゴを捨てて神になるだけで、悪魔は存在できなくなります。悪魔が存在できなくなれば、そこに戦いは起こりません。そうなるためには、私たちが個人的エゴでいることへの執着を断ち切れるかどうかにかかっているでしょう。これが私たちにとって最後の戦いのようなものです。神はそうして私たちが来るその時を待っています。

空風瞑想

空風瞑想は忘れてしまった本当の自分を取り戻す瞑想法です。瞑想の中で、今まで気が付かなかった心の新しい扉を開き、静寂でありながらも存在に満ち溢れ、完全に目覚めている本当の自分をそこに見つけていきます。そこを自分の拠り所にするとき、新しい自分の人生が始まっていきます。