生まれてから死ぬまで:瞑想哲学

私たちはこの世界に生まれてきた。そして確実に死んでいく。私たちはこの短い生の中で、何のために生まれてきたのかを知ろうとするが、その確かな答えを得ることは難しい。だが、誰が生きているのかを知ることはできる。生きている自分とは誰なのか、それを知ることが生まれてきた理由だ。



私たちはこの世界に生まれてきました。でも、なぜ生まれたきたか分かりません。気がついたら、この世界で生きていました。そして、この世界のルールを学び、そのルールに従って、ひとりの人間として生きています。私たちはいつか死にます。これは間違いのないことです。生まれたからには必ず死ぬのです。分かっていることではありますが、私たちはあまり死に現実感がありません。それは死んだことがないからです。何度か死んだことがあるのなら、死とはこういうものという感覚が分かるでしょうが、臨死体験でもしないかぎり、誰でも死ぬことは一回きりです。そのため、死ぬことはその時にならなければ分かりません。


私たちは生まれてきて、そして死んでいきます。長く生きたとしても、たかだか100年程度のわずかな時間しかこの世界にとどまることができません。そのわずかな時間をひとりの人間としてどのように過ごせばいいのでしょうか。私たちはいかにして人生を生きるかを考えます。善良な人間となるように、知識が豊かな人間になるように、満ち足りた経験をたくさん持つように、平穏で豊かな生き方ができるように、そんな人間になるにはどうしたらいいかです。そして、私たちは実際にそんな人間になります。


どんな人間になろうと、私たちは死ぬときを迎えます。死ぬときは、私たちは何も持たずに生まれてきたように、何も持たずに死んでいきます。この人生で得た善良さも、知識も、経験や記憶も、平穏さも、すべて失って、ただの無に戻っていきます。何も持たずに生まれきて、人生で何かを手にして、死ぬ時にはすべてを失う、これが私たちの生まれて死ぬまでの人生です。私たちはいったい何のために生まれてきたのでしょうか。死によってすべてを失うなら、この世界で何かを得ることに意味はあるのでしょうか。何かを得るために懸命に生きてきた人も、何もせずにじっと怠惰に暮らしてきた人も、結局は死ぬとき何も無いという状態で同じになります。善良な人間も邪悪な人間も、死においては同様に無になるだけです。この事実について考えていると、私たちは人生とは何なのか分からなくなってきます。


いままで、私たちはいかにして人生を生きるか考えてきました。でも、誰が生きているのか知りませんでした。この世界に生まれてきましたが、誰が生まれてきたか知りません。死ぬ時も誰が死ぬのか知りません。それは自分だと言うかもしれませんが、私たちはその自分という存在をほとんど知らないのです。自分とは身体や心ではありません。どんな活動もどんな思考もそれは自分ではありません。善良さも、知識も、経験も記憶も、それらは自分でないから失われます。自分とは決して失われないものです。私たちはそう知っているはずです。誰もが自分は自分だと知っています。でも、自分とは何かと聞かれれば、それは身体や心だと答えてしまいます。


私たちは自分を見失った状態でこの世界に生まれてきました。死ぬ時までに、私たちはこの見失われた自分を見つけなければなりません。もし、その自分自身を見つけたなら、死ぬ時に無になることはありません。私たちは自分を失うことなく、身体と心の死を迎えます。それは身体と心の死であって、自分の死ではありません。もう、自分が死ぬことはないのです。それどころか、生まれたことさえなかったと知ります。ただ、この死ぬことのない自分自身は個人的な存在ではありません。馴染みのある自分の名前でそれを呼ぶことはできません。そのとき、私たちは個人を超えた宇宙を取り巻く普遍的な存在になっています。


生まれてから死ぬまで、私たちはいろいろな人生を歩むことができます。その中で失われないものを見つけなければ、また死によって無になり、そして再び何も知らない人間として生まれきて、自分に欠けているものを見つけなければなりません。無というのは有になりたいという渇望です。その渇望が人を再び生まれ変わらせます。身体や心は有ですが、それは死を迎えるため、私たちはその有で満足することができません。この無限に続く繰り返しを止めるためには、失われない有としての自分自身を見つけるしか方法がないのです。


私たちは生まれ変わりもいいものだと思います。死んだら、またこの世界に戻って楽しく人生を生きたいと思うこともあるでしょう。でも、知らないうちに何万回も同じ人生を繰り返しているなら、私たちは小さなカゴの中で生きている鳥と同じです。寿命という制約の中で、何の自由もなく、生きることだけに純粋な動物のように、ただ生まれて死んでいくのです。


人間だけがこの生まれること死ぬことを超えることができます。私たちはその可能性を手にしています。自分とは誰なのか、いま自分だと思っている自分は本当に自分なのか、そんなことを考えられるのはおそらく人間だけです。瞑想がその可能性を開いていきます。この可能性を人生で行使するかどうかは、その人の選択にかかっています。私たちがその選択をしたなら、死という人生の制限から自由な自分自身を見つける道が見えてくるでしょう。

空風瞑想

空風瞑想は忘れてしまった本当の自分を取り戻す瞑想法です。瞑想の中で、今まで気が付かなかった心の新しい扉を開き、静寂でありながらも存在に満ち溢れ、完全に目覚めている本当の自分をそこに見つけます。それを自分の拠り所にすることで、人はその真実と共に蘇り、新しい自分として生きることを始めていきます。