人が果たすべき責任:瞑想哲学

私たちは漫然と生まれてきたわけではない。私たちは全生命からある希望を託され、それを実現するために生まれてきた。私たちにはそれを果たす責任がある。だが、私たちはそんな責任があことを忘れてしまった。

私たちはたいてい何かの責任を負っています。その責任は誰かとの待ち合わのような些細なこともあれば、誰かの命にかかわるような重大なこともあります。基本的に責任という言葉には重い響きがあります。そのため私たちは責任という言葉を聞くと、なんとなく気持ちが引き締まります。


責任を負うということは、何かしらの重荷を担ぐようなものです。私たちが何かの責任を負っていると、時々、そこから逃れたいと思うこともあります。そうして気楽に生きていきたいと、責任と言われることには一切関わりたくないとさえ思います。でも、私たちは責任を負うことで、それを自分が生きていく意味や糧にしていることが少なくありません。責任を負っているということで、私たちは自分の人生に意味を見出しているのです。そして私たちは責任を負って生きている人に対して人間的な魅力を感じ取ります。もし人生に何も負う責任がなかったら、私たちは張り合いのない人生を漫然と生きているだけになってしまうでしょう。責任を負っているという姿が私たちを生きている人間にしているのです。


実際に私たちはさまざまな責任を背負っていますが、そもそも人としての責任とは何なのでしょうか。もちろん人によって様々な責任の形があるでしょう。その中でも、誰もが負っている最も根源的な責任とは何でしょうか。それは人として人生で果たすべき共通の責任です。私たちはこの人生で自分自身を知らなければならないという責任があります。それを責任と言ってしまうと大袈裟な感じがしますが、人として生まれてきたからには、このことを無視することはできないのです。


自分自身を知ることは生命の頂点として生まれてきた人間だけが成し得ることです。それは人間しか得ることのできない最高の智慧なのです。私たちは人として生まれてきて、人としての恩恵を受けています。私たちが生きる間にどれだけの生命が犠牲になっていくのでしょうか。毎日、私たちは多くの生命体を犠牲にして生きています。それは人間が強いからという理由で片付く問題ではありません。私たちはどう生きようとも、多くの生命に犠牲を払わせています。そして多くの生命は私たちのために犠牲を払うことを受け入れています。それは私たちが人間だからです。


人間という生命体は生命としての最高の智慧を得る可能性を秘めています。多くの生命体はそのことを知っていて、私たち人間の可能性に自らを捧げています。その人間の可能性が多くの生命体にとっての希望なのです。奴隷のように制限された生命から解放される可能性がそこにあると信じているのです。制限された生命から解放されるためには、自分自身を知らなければなりません。自分自身を知ろうとするのは人間だけです。私たち人間はそんな多くの生命体の希望として、その頂点に押し上げられてきました。そして自分を知るという可能性を実現できるところまで進化してきたのです。


誰もが人間になれるわけではありません。人間という生命を支えるためには、自分の生命を捧げるたくさんの存在が必要です。私たちは多くの生命に支えられ、それだけ多くの期待を背負っています。でも、人間になった私たちの大多数はそんな期待があることを忘れています。私たちは多くの生命の犠牲があることなど、まるで当たり前のように思って、そして人間としての人生をいかに楽しむかに夢中になっています。与えられた人生は自由ですから、それはそれでいいかもしれません。でも、私たちを信じて、そこで犠牲を払っている生命体がいることも事実です。


私たちには果たすべき責任があります。それから逃れることはできません。自分自身を知ること、それが全生命体の希望であり、唯一の救いです。それができるのは私たち人間だけです。私たちは全生命体からの希望を託されています。人間として生まれたということは、そういった果たすべき責任を負っているということなのです。

空風瞑想

空風瞑想は忘れてしまった本当の自分を取り戻す瞑想法です。瞑想の中で、今まで気が付かなかった心の新しい扉を開き、静寂でありながらも存在に満ち溢れ、完全に目覚めている本当の自分をそこに見つけます。それを自分の拠り所にすることで、人はその真実と共に蘇り、新しい自分として生きることを始めていきます。