ひとつになること:瞑想哲学

私たちは個人になるために、望んでひとつから分離していった。分離してから、再びひとつになることを望んだ。ひとつになるためには、個人を手放さなければならない。個人を手放した時のみ、私たちはひとつであることを理解する。

私たちはひとつになったり、別れたりしています。それは自然なことであり、私たちにとって、ひとつになることが良いことでも、別れることが悪いことでもありません。私たちにはひとつであることと別々であることの歴史を持っています。元々、私たちはひとつでした。この宇宙が始まる前は、ただひとつの小さな一点があるだけでした。そこに自分がいました。それがビッグバンによって、小さな一点から多種多様な物たちに分かれて、この宇宙を形成していきました。自分の隣りにいる見も知らない人も、道端の気にもとめないような石ころでさえ、この宇宙ができる前は自分とひとつだったのです。


もし、宇宙に自分ひとりしかいなかったら、どう思うでしょうか。私たちは自分以外のものを探したくなります。自分自身を細切れにしてでも、自分以外のものを見つけたくなります。その思いがビッグバンという大きなエネルギーとなり、ひとりを細分化していったのです。まるでひとつの受精卵が細胞分裂を繰り返していくように、宇宙は細分化し、多彩なその世界を作り上げていきました。


でも、宇宙が多様化していったとしても、その大元はひとつの自分自身です。姿形がどれだけ変わっていっても、ひとりの自分で在り続けます。ひとりの自分から見た宇宙は、まるでひとりですべての役をこなしている演劇のようです。そこで私たちはひとりという記憶を消して、それぞれを個人として完全に独立した存在にしました。そして、私たちは自分と自分以外の存在という認識を持つようになり、世界を自分と別の存在として楽しみ、そこで生きることに喜びを感じるようになったのです。


ただ、私たちは多様な存在のひとつに独立することで、多少の弊害を感じるようになりました。それは世界は自分の思い通りにはならず、それが自分を苦しめるということです。自分と自分以外のものが独立しているため、それぞれの存在が世界を自分の思い通りにしようとして、そこに願望の軋轢が生まれ、それが私たちに苦しみを引き起こしたのです。


そこで私たちは他のものとの競争に勝って、世界を自分の思い通りにしようとしました。私たちは世界に対する主導権を握ろうと考えたのです。私たちはその競争に勝って自分の思い通りになることもあれば、負けて誰かの思い通りになることもありました。私たちはその競争に勝ちたいがために、自分を強化していきました。自分を強化すれば、世界は自分の思い通りになり、そうすれば世界をもっと楽しむことになるはずだと考えたのです。でも、私たちが自分を強化すればするほど軋轢は深まり、世界は思い通りにならず、自分の中に苦しみが満ちてきます。私たちはただ世界を楽しみたかっただけなのですが、個人として独立したがゆえの苦しみを抱えるようになったのです。


個人という存在は世界を楽しむための仮の姿です。それは偽りの自己です。私たちはそう知っていたはずなのに、世界の中でその偽りの自己から抜け出せなくなり、偽りであるがゆえの苦しみに陥ってしまったのです。私たちはこの苦しみから逃れるために、再びひとつになることを求めるようになりました。社会やグループといったひとまとまりの一員となると安心感がありました。愛する人と結ばれると気持ちが満たされました。大自然の中にいると、そこに一体感を感じて気分が高揚しました。私たちは個人という垣根を取り払うことで、ひとつになることが苦しみを和らげると知りました。


でも、そこにはまだ個人が存在しています。だんだんと個人は社会やグループを支配したくなり、もっとたくさんの愛する人を見つけたくなり、いくつもの素晴らしい景色を見る経験を求めるようになりました。私たちはひとつになることを目指していたはずなのに、最終的には個人としての思い通りにならない苦しみの世界に舞い戻ってしまいます。私たちはこの問題を解決するため、世界とひとつになることを求める前に、自分という存在の原点に戻ることにしました。そこは元々自分がいたところなので、間違いのない場所です。


私たちは瞑想によって、自分を原点に戻していきます。どこまで戻ればいいでしょうか。それは宇宙が始まる前の小さなひとつの一点であるところです。そこには個人は存在していません。そこはひとつとして存在するということだけがあります。他に何の対象物もありません。大昔、私たちはその状況に耐えられず、自分を切り刻んで分離を始めたのです。私たちは、そうすれば自分の好奇心が満たされると思ったのです。その結果、確かに私たちの好奇心は満たされました。ところが、私たちは分離が常態化してしまい、本当の自分の原点を忘れてしまいました。自分の存在の原点を忘れたため、自分の周りのものがすべて敵対していたり、自分を苦しめたりする対象に見えるようになりました。本来、それらは自分自身であったものです。実際には今でもそれは自分自身なのです。大元に戻ると、そんな自分の歴史が見えてきました。


私たちは元々この宇宙すべてでした。すべてが自分であるなら、何かと対立したり、苦しめ合ったりする必要はありません。私たちは宇宙のすべてだったという記憶を取り戻さなければなりません。そのためには自分の原点に戻って個人を捨てる必要があります。個人は偽りの自己であり、ただの仮面なのです。瞑想によって、私たちは個人という枠を超えて、自分の原点を知ることができます。そこではすべてが自分自身です。ただ、その自分自身はもはや個人ではありません。自分の原点は存在するだけです。存在するということがすべてなのです。


そこには個人が期待するようなものはありません。自分の望みを叶える魔法もないし、苦しみを和らげる薬もありません。幸福や満たされることが奇跡のように起こることもないし、世界を支配したり、思い通りにすることもできません。むしろ、どんなことが起こっても、それは何もせず、何の役に持た立ちません。自分の原点に戻れば、すべてとひとつになれば何かが変わると思ったのに、それは何ひとつ変わらず、とんだ期待はずれでした。そう思ったのは個人です。


私たちが個人であるかぎり、ひとつになることを個人強化のために利用しようとします。私たちはそこから更に瞑想を深めていかなければなりません。個人という認識と存在という真実が完全に入れ替わるまで絶え間なくひとつを目指します。私たちが自己の原点である存在と完全にひとつになるとき、世界がすべて存在だということを理解します。世界がすべて存在であるなら、すべては自分自身だということも知ります。そこには個人もいます。個人は自分が偽りの自己であり、ただの仮の姿だと知っています。そんな個人も存在が許されています。存在でできているので、それも自分です。


ここで私たちはどんな状況になっているのでしょうか。私たちは確かにひとつであり、同時に多様でもあるということです。このことは矛盾しています。私たちには二つの立場にあり、それを同時に経験しています。個人はこのことを受け入れられないでしょう。でも、存在であるなら、納得して受け入れられます。存在はすべてであるので、ひとつであることもそれが分離して多様であることも同じひとつなのです。個人はひとつであることに対して、いろいろな妄想をするかもしれませんが、個人は偽りの自己であり、よってその妄想も偽りです。ひとつであることはとてもシンプルです。そうでなければ、そこに分離が起きて特定の何かに制限されてしまいます。


存在するということは、何の動きもなく、何の性質もなく、何の意志もなく、何の役にも立ちません。でも、それは確かに存在しています。この存在の確かさに優るものはこの世界にはありません。私たちは分離からひとつに戻って、このことを理解します。これがひとつになるということです。

空風瞑想

空風瞑想は忘れてしまった本当の自分を取り戻す瞑想法です。瞑想の中で、今まで気が付かなかった心の新しい扉を開き、静寂でありながらも存在に満ち溢れ、完全に目覚めている本当の自分をそこに見つけていきます。そこを自分の拠り所にするとき、新しい自分の人生が始まっていきます。