神の声が聞こえる:瞑想哲学

神が言葉を喋ることはない。神は無言で言葉を語る。この言葉を聞き取るためには、私たちは静かにその言葉に耳を傾けなければならない。そして私たちが静かな無言そのものになったとき、神の声を聞くことができる。

私たちは神の声を聞くことができるでしょうか。実は私たちはいつも神の声を聞いています。それはいつも耳で聞いている音のように聞こえるわけではありません。口で喋ったり、心の中で考えたりするような言葉とは違います。神の声は無言です。

神はいつも私たちの目の前にいますが、私たちはその姿を見ることができません。神は透明に光り輝く存在でも、白い髭を生やして杖をついてる老人でもありません。神の姿は無形です。神は言葉を発することなく私たちに何かを伝え、何の姿も現さずに私たちに何かを示しています。

もし神が何かの言葉を喋ったり、何かの姿で現れてきたなら、それは神ではありません。それは神に近い存在なのかもしれませんが、神そのものではないのです。私たちは神の姿を見ることも、その言葉を聞くこともできません。

それでは神はどこにいるのでしょうか。神は私たちのすぐ近くにいます。あまりにも近すぎて、私たちはそれに気がつきません。神の声は私たちの思考の背景で無言を貫いています。私たちはあまりにも思考に気を取られて、その背景の無言に気がつきません。あるいはその無言を意味のないものとして無視し続けます。そして、私たちは実際には神などいないと心の何処かで思っています。

神は私たちの見るものすべてに宿っています。ただ、私たちは何かの姿形として見えるものが現実と思っているため、それに気がつくことができません。神は私たちの見えるものに宿る存在として不動を貫いています。私たちは見えるものの姿形とか変化に気を取られて、それが存在しているということに気がつきません。あるいはそれらが存在しているという事実を意味のないものとして無視し続けます。

実際には、神は存在しないのではなく、私たちが神を無視しているのです。それはあまりに繊細で、動くことなく、何の性質も持たないため、私たちはそんな神に価値を感じず、あえてそれを取り上げることもせず、世界の色鮮やかに動き続ける出来事に五感を傾けています。そうして、私たちは神を知らなくても十分に幸せに生きていると思っています。

果たして、私たちにとって神は本当に価値がある存在なのでしょうか。神などいなくても大丈夫なのでしょうか。もし神がいなかったら、私たちの思考である言葉は存在できません。私たちが見ている世界も存在できません。言葉や物事はそれをつくっている素材がなければ存在できないことは明白です。

神はすべての物事の素材です。すべての言葉は神でつくられた心という空間があり、神でつくられた音があって存在すると認められます。すべての姿形もそうです。もし神が存在しなければ、その素材がないため、自分という人間すらも存在できません。私たちはそうして神という空間で、神によってできているにもかかわらず、神などいないし、たとえいたとしても、それ程重要ではないと思っているのです。

神はとても慈悲深いので、そんな私たちを完全に許容しています。驚いたことに、神は自分の空間で、自分を素材にした存在に、神を否定されることさえ許しているのです。神にとって、自分でできたものが何を言おうと、何をしようと関知しません。なぜなら、それで神自身の存在が揺らぐことはないからです。

私たちはそんな神で出来ているため、瞑想することで自分自身が神だと知ることができます。心の中の思考がすべて消えたとき、それでも私たち自身が消えることはありません。そこには思考が消えていると知っている存在がいます。それが私たちの素材である神です。このことを知ったとき、神はいつでも無言でそこにいたと分かります。それは自分自身だったので、あまりにも近くて分からなかったのです。

もし、私たちがこのことを知ったなら、神は自分だけでなく、世界のすべての物事に宿っていることも分かります。自分は神であり、自分が見ているものすべても神です。私たちは思考や世界を善悪や好き嫌いで分断して選別していきます。でも、神はひとつであり、同時にすべてであるので、善悪も好き嫌いもありません。神は悪を正すこともなければ、嫌いなものを消し去ることもしません。私たちはこのことに少し戸惑うでしょう。悪は無くなるべきだし、神はそのために尽力すべきだと思っているからです。もし神が何もしないなら、私たちは神に対してそんなことでいいのかと思います。その答えは、私たちが神で居続けることで理解できます。

私たちの思考は不安定で、いつもころころと変わっていきます。喜んだり、悲しんだり、文句を言ったり、感謝したり、その様子はまるでひとつの喜劇のようです。でも、それが思考の仕事なのです。それは自分自身ではなく、思考という機能そのものなのです。私たちは神としてずっとそれを見続けてきました。でも、私たちはまるで映画の中の主人公に感情移入してしまったかのように、自分がその思考や感情になりきってしまっているのです。世界のことは世界がなんとかしています。もちろん、それは人がそうしていきます。悪を正そうとするかもしれないし、嫌いなものを遠ざけることもします。

私たちはそれをどこから眺めているでしょうか。ひとりの人間としてでしょうか。それとも、心の中心の神から見ているでしょうか。私たちが神とひとつだと知るとき、その視点が変わります。物事は変化があり、カオスがあり、調和に移行し、安定し、そしてまた変化します。それでも私たちは微塵も変化しないひとつの視点でいます。その視点でいるとき、変化もカオスも調和も安定も、その素材が変わることはないため、そう変化することを許しています。

神はこの世界を愛しています。人も世界も神で出来ているからです。神は誰にでも自らが神なのだと絶え間なく無言で語りかけています。心の中で、そして世界のすべての現象の中で、ここにいると語りかけています。

空風瞑想

空風瞑想は忘れてしまった本当の自分を取り戻す瞑想法です。瞑想の中で、今まで気が付かなかった心の新しい扉を開き、静寂でありながらも存在に満ち溢れ、完全に目覚めている本当の自分をそこに見つけていきます。そこを自分の拠り所にするとき、新しい自分の人生が始まっていきます。