感謝の気持ちをたどると:瞑想哲学

感謝の気持ちを持つことは大切なことだ。だが、その気持ちは個人の都合に左右され、限定的で不安定だ。もし私たちが自分の根源に触れるなら、そこには不変の感謝がある。私たちがその根源になるなら、感謝自身になる。

私たちは感謝する気持ちを大切にしています。感謝することはとても気持ちのいいものです。それが気持ち悪いという人はあまりいません。でも、私たちは人との関係にいつも感謝しているわけではありません。何か助けてもらっても当たり前と思ったり、心配してくれる人を疎ましく思ったりします。私たちは自分の都合で感謝したり、しなかったりを決めています。


この差はなぜ生まれるのでしょうか。感謝の気持ちになるとき、私たちの心は満たされています。自分の中の何かが満足して、その満足に対して感謝の気持ちが生まれるからです。感謝の気持ちは何かを与えてくれた相手よりも、それを受け取った私たちの心の状態に深く影響されます。私たちが感謝の気持ちになるためには、どんなことが起こったかよりも、自分の心がそれによって満たされるという経験が必要になります。


満たされるとはどういうことでしょうか。それはすべてに共通の存在に触れる時に起こります。共通の存在とは、私たち自身の根源のことです。もし私たちが直接それに触れたなら、その瞬感に無条件で満たされます。個人でいるときは、その根源を意識することはありません。根源ではなく、何かの経験を通して満たされることが起こります。そして、その満たされた経験を導き出してくれた相手に感謝の気持ちを感じます。個人の場合は感謝の気持ちになるために相手や経験を必要とします。


個人は経験を通して相手に感謝ばかりを生み出すわけではありません。たとえ同じものを与えられても疎ましい気持ちになり、裏切られたという嫌悪感を生み出すことすらあります。自分の思いと相手の行為がちょうど重なって、調和的に満たされる時のみ、感謝の気持ちは起こります。個人的な感謝の気持ちは、そういったつながりの状況にとても影響されます。そのためとても不安定です。感謝の気持ちを持つことはいいことなのですが、個人が感謝する場合、こういった不安定さがあることも事実です。


私たちは瞑想によって自分自身の根源に触れることができます。そしてその根源そのものになることもできます。その根源はすべてであるので、欠けているということがありません。そのためいつも満たされています。その根源そのものになるとき、私たちは自動的に満たされます。自分個人の状況が最悪の時でさえ、根源においては満たされています。そこで私たちには無条件に満たされているのです。


根源になることは究極的な感謝です。自分と相手とその周りのこともすべてが根源でつながっていて、そこで完全に満たされいれば、それは感謝にしかなりません。根源においては、誰かに感謝するのではなく、根源である自分自身に感謝しています。この自分に感謝することが、すべての人に感謝することになります。それは自分だけではなく、すべての存在の根源だからです。感謝とは相手や世界によって現れるのではなく、自分自身そのものから生まれていたのです。


満たされることはひとつの根源から自分と相手と世界とに別れてしまったので、感謝は限定的で不安定なものになってしまいました。それでも、自分と相手が調和した時のみ、感謝の気持ちが現れてきました。それは私たちがすべて根源でひとつだということを示そうとしています。私たちが感謝の気持ちを持たなければという義務感で感謝していても、本当の感謝にはなりません。感謝をたどっていった先の根源そのものになり、そこで失うことも変わることもない感謝そのものとなって、はじめて本当の感謝になることができます。


私たちが感謝そのものになったとき、それは感謝ではなくなります。それは根源的な満たされたひとつの存在そのものです。個人がどんなに絶望的な状況にあっても、それは満ち足りたまま存在しています。個人にとっては、この存在が自分の内にあることが完全な救いです。感謝することから、満たされることに、そしてその根源へと私たちは導かれていきます。そして感謝は私たちの中で完成されるのです。

空風瞑想

空風瞑想は忘れてしまった本当の自分を取り戻す瞑想法です。瞑想の中で、今まで気が付かなかった心の新しい扉を開き、静寂でありながらも存在に満ち溢れ、完全に目覚めている本当の自分をそこに見つけていきます。そこを自分の拠り所にするとき、新しい自分の人生が始まっていきます。