戦うべき相手は誰なのか:瞑想哲学

私たちは平和な世界を望んでいるが、争いをも望んでいる。この矛盾を解決できないのは、争う相手を間違っているからだ。私たちは争う前に、その相手を見極める必要がある。その相手とは自分自身である個人的エゴだ。

私たちは平和な世界を望んでいます。世界から争いがなくなって、誰もが幸せに暮らしていけるような世界を求めています。でも、世界から争いが消えることはありません。平和を求めて戦争反対の活動をすることさえ、いつの間にか争いになっています。


私たちには争いが必要なのでしょうか。私たちは、まるで争いが必要かのように生きています。私たちは程度の差こそあれ、誰かに嫉妬したり、妬んだり、懲らしめようとしたりします。そんな自分でいるとき、それが別に悪いことだとは思っていません。むしろその行動を正当化しようとします。そしてその争いによって、正しい道を切り開いくのだと自負します。


争うことがすべて悪いことだとは思いません。なぜなら、争うことで進歩することもあるからです。それに、人間には争うという感情と行動力が備わっています。私たちは生きるために争うという能力を必要としているのです。


この争う能力は何をもたらすでしょうか。本当に私たちに幸福をもたらすでしょうか。私たちには戦わなければならない相手がいます。その相手はとても強力で、生半可な力や平和主義ではどうすることもできません。それは私たちを支配し、その支配をずっと続けようとします。その支配者は私たちを支配し続けるために、本当の敵を隠して、間違った相手を私たちに教え込んでいます。私たちはその相手を倒せば幸せになれると信じています。その結果、世界は何度も戦場になりました。その支配者とは私たちのマインドです。


私たちのマインドが私たちを争いへと誘導しています。マインドとは個人的エゴのことです。私たちは個人的エゴを守るために戦っています。私たちは個人的エゴが自分自身だと思っています。そのために自分の領域を守るために壁を作ります。壁を作って、そこに入り込むものを攻撃します。壁の中にはプライドや評価、見解、成功体験、心の傷などがつめ込まれています。


もし自分のプライドを貶めようとする者がいれば、私たちはそうさせまいと攻撃してプライドを守ります。心の傷をつつこうとする者がいれば、そういう者から自分の身を守るために闘うでしょう。個人的エゴは長い年月をかけてこのシステムを作り上げました。私たちはこの壁を強化することが仕事になり、個人は自分自身としてどんどん強くなっていきました。


私たちは自分の壁を守るために闘うことは正義であり、それが間違っているなどと思うことすらありません。つまり、私たちは平和を望みながら、それを乱す者と争うことに何の抵抗もなくなったのです。


個人的エゴにとって幸せなことは壁の中が平和であることです。逆に、恐ろしいことはこの壁がなくなることです。この壁がなくなったなら、個人的エゴは存在できなくなってしまいます。そのため、なるべく壁の外で争いを起こしておいたほうが好都合なのです。私たちは敵を見つけることに躍起になり、それを排除することに生きがいを感じます。それが個人的エゴの仕掛けた罠です。


私たちが闘う相手はこの個人的エゴです。私たちが真の平和を求めるなら、いままで自分自身だと思ってきた個人的エゴと戦わなければなりません。それはとても抵抗があることです。今まで信じてきた友達を攻撃するような気持ちになるからです。誰もそんなことはしたくないので、個人的エゴがちょっとおかしいと思っても、今まで通り壁の外での戦いを繰り返したりします。


個人的エゴは実に巧妙にこの仕組を作り上げました。でも、個人的エゴは自分自身ではありません。プライドや評価や、見解、成功体験、心の傷は自分自身ではありません。もちろんそれらを囲っている壁も自分ではありません。私たち自身はもっと深いところにいます。この真実を個人的エゴは誰にも悟られないように隠してきました。いつでも個人的エゴが自分自身だということに疑いを持たないように仕向けてきました。


私たちは個人的エゴが自分自身だということはおかしいと気づくことができます。ただ、この個人的エゴの巧妙な罠を破壊するためには強力な力が必要になります。なにしろ、個人的エゴの壁は分厚くなって高くそびえ立っています。この壁を破壊するためには、神の怒りのよう強烈な力が必要です。その神の怒りのような力こそ、私たちの争う力なのです。


私たちはいままでその力を壁の外の世界に使ってきました。でも、それは瞑想によって自分の中で使うことができます。その力を使えば、その壁を破壊し、個人的エゴの支配を終わらせ、隠されていた自分自身をそこに解放することができます。


個人的エゴの壁を破壊したとき、私たちは隠されていた本当の自分自身に目覚めます。私たちの内面における戦いはこの目覚めで終結します。個人的エゴが再起しようとしなければ、私たちは誰とも戦う必要はありません。私たちは壁のない完全な平和をそこに実現します。


ただ、そうして個人的エゴを破壊した人を、個人的エゴを持つ人は恐れるでしょう。そのため、そういった人を敵視したり、貶めようとするかもしれません。本当の自分自身に目覚めた人は個人的エゴがないために、そういった人たちとも戦う必要を感じません。なぜなら、本当の自分に目覚めた人にとっては、自分を攻撃する相手でさえ自分だからです。


自分という壁がなくなるというのはそういうことです。そして目覚めた人はどんな攻撃を受けても平和なままです。目覚めた人は平和以外ではいられません。もしかすると、反撃することがあるかもしれません。それでも、それは目覚めた人がやっているわけではありません。それは言うなれば、神がやっています。


神の攻撃を受けた個人的エゴは、ダメージを負います。そこを逃げ出して、壁の向うに引きこもります。そして、神の攻撃によって、自分の壁の中の隠された真実が表に出ることを恐れます。実際に神の一撃は強力なため、個人的エゴが怯んだ隙に、壁の中の真実が目覚めてしまうことがあります。そうなれば、個人的エゴの壁は内側から崩壊し、隠してきた自分自身の真実が明かされていきます。そして個人的エゴが好んでいた殺伐とした争いの世界は終わり、そこに平和な世界が広がっていきます。


実際には平和でない世界など存在せず、個人的エゴがその真実を隠して、争いの世界を演出していただけです。自分自身の真実が明らかにされたとき、私たちはそのことに気がつきます。争いはやめるべきものではなく、その争う相手を見気分けるべきものです。


私たちが個人的エゴの罠を見抜き、個人的エゴと戦うと決めたなら、この戦いに負けることはありません。なぜなら、目覚めた存在こそ真実の自分自身であり、この真実を覆すほどの敵はどこにもいないからです。

空風瞑想

空風瞑想は忘れてしまった本当の自分を取り戻す瞑想法です。瞑想の中で、今まで気が付かなかった心の新しい扉を開き、静寂でありながらも存在に満ち溢れ、完全に目覚めている本当の自分をそこに見つけます。それを自分の拠り所にすることで、人はその真実と共に蘇り、新しい自分として生きることを始めていきます。