愛がすべてなのか:瞑想哲学

私たちの愛が憎しみに変化するなら、それは本当の愛ではない。本当の愛は変わることがない。変わることのない愛は、私たちの中心に存在している。そして私たちは自分がその愛そのものだということを知ることができる。

私たちは愛という言葉が好きです。世界が愛で包まれれば、きっと素晴らしい世界になると思っています。でも、世界が愛で包まれることはありません。世界には救いようのない憎しみもあります。もし、すべての人が愛を持てば、世界からこの憎しみを取り去ることができるでしょうか。


私たちは基本的に快楽を求めて人生を渡り歩いています。実際には愛よりも快楽を優先します。金銭的な快楽、権力的な快楽、性的な快楽に強く惹かれます。本来、愛とはそれらを放棄することです。愛というのは、条件によって発生するものではなく、どんな状況でも、決して変わることなく愛として在り続けることです。私たちはそんな愛になるよりも、快楽の欠如を心配します。そして快楽が欠如した愛は自分が求めている愛ではないと言い切ります。


もし私たちがそう発言したなら、その時点で愛は失われます。愛というものに条件がついてしまったからです。それは愛ではなく、たんなる快楽を得るためのテクニックです。それはテクニックですが、私たちはそれに愛という名前を付けようとします。そこから「愛がすべて」という言葉が生まれます。言い換えれば、それはすべての愛を私に捧げて欲しいという願望です。自分の周りを愛で埋め尽くしたいのです。そうして永遠に快楽を自分のものにしたいのです。


ただ、物事はそう簡単に運ぶことはありません。私たちの手に入れた快楽は必ず失われていきます。愛でいっぱいだったはずの世界は暗く陰っていき、私たちは快楽を失っていくことに怒りと悲しみを覚えます。そして自分から愛を奪っていく世界を憎むようになります。このことは当たり前のことです。愛することの反対側には、いつも影のように憎むことが寄り添っています。私たちは愛する限り、憎しみもそこにあることを知らなければなりません。愛がすべてであるなら、憎しみがすべても有り得るということです。


でも、私たちは瞑想することで本当の愛を見つけることが出来ます。この愛は憎しみに変異することがありません。どんな状況でも愛として変わることなく在り続けます。そんなことがあるのでしょうか。私たちは愛が憎しみに変異していく姿を何度も見てきました。でも、この愛を見つけることは、愛を憎しみに変異しないようにするよりも簡単です。


それは私たちの心の中心にあります。私たちの心の中心は純粋に「私が在る」というところです。それが自分の核となって、名前や身体や思考や能力などがその周りに形成されています。その自分の中心は私たちの存在の原点であり、付随する自分の条件がすべて外されているところでもあります。その中心をさらに掘り下げていくと、それは「在る」だけになります。この「在る」が自分を含めた世界の中心であり、すべての素材です。


「在る」という素材は、どんな形にでも変化することが出来ます。それは空間や風、火、水、大地になり、すべての生命、その生命の営みになります。愛することや憎むことさえ、この「在る」によってできています。「在る」はそれがどんなものになるとしても、それを許しています。それが地獄の鬼になろうが、神聖な天使になろうが何も言いません。これが私たちの中心にある無条件の愛です。地獄の鬼も邪悪な悪魔でさえこの愛で出来ていて、その形が何になろうと素材である愛が変わることはないのです。


私たちは快楽というレベルの愛ではなく、この根源としての愛を知ることが出来ます。この根源としての愛を知ったとき、はじめて「愛がすべて」と言うことができ、世界はすでに愛で包まれていたことを知るのです。

空風瞑想

空風瞑想は忘れてしまった本当の自分を取り戻す瞑想法です。瞑想の中で、今まで気が付かなかった心の新しい扉を開き、静寂でありながらも存在に満ち溢れ、完全に目覚めている本当の自分をそこに見つけます。それを自分の拠り所にすることで、人はその真実と共に蘇り、新しい自分として生きることを始めていきます。