本質について(パルメニデス)

パルメニデスは古代ギリシャ哲学者であり、あのソクラテスを論破する程の知識の持ち主であったと言われている。記録されている文章は少ないが、現在、目にすることのできる「本質について(On Nature)」という短い文章にパルメニデスの哲学の片鱗を見ることができる。これは英文(古英語)から日本語へと私が翻訳したものであり、読みにくいところはご容赦いただきたい。「存在」とは何かという解釈が、私が瞑想で伝えようとしているここと同じなので、興味深く感じて、ここに参考資料として掲載することにした。

本質について (パルメニデス)

その馬たちは、思っていたよりも遥かに遠くまで私を運んでいった。馬たちが向かうのは、人々に広く知られている女神の館だ。女神は自分自身の手によって、物事を良く知る人間を招くのだ。私はその館への道を運ばれていった。賢い馬たちが私を乗せた馬車を引き、御者の娘たちがその道を示した。

車軸は車輪の回転で責め立てられ、悲鳴のような甲高い音を鳴らし、差し込みの中で火花を散らしていた。太陽の娘たちが光の中へと私を運ぼうと急いでいた。彼女たちは顔にかかるベールを投げ捨て、夜の住処をあとにした。

その途中に、夜と昼の道の門があった。門の下には敷石があり、上には太い柱が横たえられている。その門は空高くそびえ立ち、堅牢な扉よって塞がれていた。その扉を開く鍵は時の女神が持っていた。娘たちは時の女神に門の扉からカンヌキを外してくれるよう、優しい言葉で巧みに説得した。

堅いヒンジがリベットと釘で打ち付けられた軸を動かし、扉は後ろに下がって大きく開かれた。そこを抜けて通りに出ると、娘たちは馬車を館へと導いた。館に着くと、女神が私の右手を取って優しく出迎えた。そして、私にこう話しかけた。

ようこそ、気高き者よ。あなたは不滅の騎士たちに連れられることを耐え忍び、その馬車で私の館にやってきました。これは正義と公正がこの道へとあなたを送り込んだのであり、決して悪い運命ではありません。

確かに、ここは人間が歩いている道からは遠く離れた場所にあります。あなたは、説得力のある真実の揺るぎない心としてだけでなく、真実を全く信じない人間の意見としても、ここで全てを学ぶために私に会ったのです。あなたはその学びの中で、そのすべての物事を受け入れたとしても、人に見えるものも認めなければならないと判断するでしょう。それらのことについても学んでいきましょう。

さあ、これから私はあなたに話をします。あなたは私の言うことを聞いて、それを持ち帰ってください。

人が考えることのできる二つの探求の道があります。最初の道は、すなわち、在る、それがないことは不可能という道です。真実を確信するのも同じ道になります。

もうひとつの道は、それはない、ないということが必要でなければならないという道です。 私は、それは全く信頼できない道だとあなたに言っておきます。あなたは何がないかを知ることはできません。それは不可能です。それを口にすることさえできません。考えられることと存在できることは同じことだからです。

物事が心にどのくらい強い存在を持っているか考えてみましょう。 実際には、心が宇宙のあらゆる所に完全に散在しているように見えるとき、または一緒に結合されているように見えるときでも、存在としてつながっているものを分け離すことはできません。私にとっては、どこから始めるのかは関係ないのです。実際に私はそこに戻ってきます。

存在するものは、考えられることと話すことができる必要があります。在ることは可能であり、何もないことは不可能だからです。これが瞑想によって私に導き出されたことです。

私は、人間が何も知らずにこの二つの心でさまようにあたり、この最初の探求の道やこの他の道を秘密にしておきます。迷いが人間たちの胸中でさまよう思考を導いているため、彼らは目も見えず耳も聞こえない人のように、そこで呆然と耐え忍んでいます。その目で同じことを同じであるとか違うとかを識別できない人々とっては、全てのことが全く反対の方向に進んでいきます。

このことは物事が存在するか存在しないかを決して証明することはできないため、あなたはこの探求の方法からあなたの思考を押さえつけます。邪な道を追いかけてあちらこちらに目を投げかけたり、響いている耳や言葉にあちこち振り向けたりする癖をつけないように。しかし、あなたは私の発した話から小さな反論でも起こったなら、それを検証してください。

たったひとつの道が語られて私たちに残されます。すなわち、それは存在することについてのとてもたくさんの証です。それは、創られたものではなく、不滅であり、ひとつであり、完成されていて、不動であり、終りがありません。それは今までとかこれからということはなく、いまここにあり、全てがひとつにつながっています。

それにはどんな起源があるのでしょうか。それをあなたは探してみたいでしょうか。どのような方法でどの源から、それは現れてきたのでしょうか。私はあなたに話したり考えたりしないようすることはありません。何も存在しないということを考えたり発言したりすることができないからです。

そして、もしそれが無から起こるのであれば、存在を作る必要のあることは遅かれ早かれ生じたでしょうか。したがって、それは全部であるか全く無いかのどちらかでなければなりません。真実の力はどのような方法でも、無からそれ自身を生じさせる何かを受け入れることはありません。

それで、正義は彼女(時の神)の足かせを緩めず、何かを現在や過去に生じさせて、それをすばやく保っています。「それは存在するのかしないのか」きっとそれは存在する必要があると判断され、私たちは考えられず名前がない(真実の道ではないため)ひとつの道を脇におき、そしてもう一方の道が現実で真実になります。

次に、どのようにして存在するものは未来に現れるのでしょうか。または、どうやって存在になるのでしょうか。もし、それが存在になるのであれば、それは有り得ません。もし、未来に存在するであろうことなら、それもありえません。つまり、それが消失することや過ぎ去ることであれば、消息がわからなくなってしまうということです。

すべてが同じであるため分割することはできず、それを一緒に保持しないように、ひとつの場所よりも別の場所により多くをおいておくこともできません。少なくなるということさえないため、全てが存在するもので満たされています。存在するものとの接点がそこにあるため、すべてが一緒に保持されています。

さらに、それは力強い鎖のつながりの中で不動であり、始まりも終わりもありません。生成を受け継ぎ消滅が遠くに運ばれてから、真の信念はそれらを投げ捨てました。それは同じものであり、自分と同じ場所で休息し、それ自身の中にとどまっています。そして、それはその場所で変わらずにとどまっています。固い必要性のために、両側ですばやく保持された限定的なつながりの中にそれは保たれています。

したがって、無限であるものは許されません。それは何の必要もないからです。また、もしそれが無限だったなら、それはすべてのものの必要になったでしょう。それは考えることができることと同じことです。あなたはそれが婚約者である何かなしに思考を見つけることができません。そして運命はそれが全体と不動であるように連鎖しているので、存在する時以外はいつでも、存在することはないででしょう。だから、これらすべてのことは、人間が真実だと信じて与えた名前です。生成と消滅、存在と存在しないこと、場所の移り変わり、輝く色の変化。

そして、それは最果ての境界線を持っていて、それは丸い形の塊のように、中心からすべての方向の中心に均等に整えられていて、すべての面が完璧です。それはひとつの場所で他の場所よりも大きかったり小さかったりすることができないからです。平等に届くことからそれを保つことができないものは何もないため、それは決して破壊されないという以前に、この場所に存在するものが多くなったり少なくなったりすることも不可能なのです。それはすべての方向に等しいため、平等に制限の中に閉じ込めます。

ここで私の信頼できる真実についての話と考えを終わりにします。これからは、私の言葉の不明瞭な理法に耳を傾け、人間の意見を学ぶことです。

空風瞑想

空風瞑想は忘れてしまった本当の自分を取り戻す瞑想法です。瞑想の中で、今まで気が付かなかった心の新しい扉を開き、静寂でありながらも存在に満ち溢れ、完全に目覚めている本当の自分をそこに見つけていきます。そこを自分の拠り所にするとき、新しい自分の人生が始まっていきます。