28:失うことのないものについて


 かつてスピリット・ウェイカーは私にこう語った。


 あなたは何のために生きているのだろうか。その明確な答えがよくわからなくても、あなたは明日を生きていく。何かで収入を得て、消費して、満足する。そして、あなたはそんな日々の中で、安心し、喜び、安定することを願っている。


 日々、満足するために何をするかは人それぞれ違うだろう。その何かは世界中に無数の選択肢が用意されている。あなたは世界の中で何かを探し出し、どれが一番自分を満足させてくれるかを考え、その選択をする。


 これは終わりのない作業だ。あなたは毎日、このことを何の疑問もなく繰り返し行っている。この事実は、その生き方が間違っているということではない。それは人間としてごく自然な生き方だ。だが、あなたがそれを何度繰り返しても最終的な満足を手に入れることはない。いつも一時的な満足しか得ることができず、完全な満足に落ち着くことがないのだ。


 実際にあなたが探しているものは存在だ。存在とは決して消えることのない満足だ。あなたが世界で探しているのはそれだけだ。ただ、あなたはその存在を見つけることができない。世界のすべてのものは存在でできている。あなたが世界で何かを求めるのは、それが存在でできているからだ。あなたが求めるものは間違ってはいない。だが、あなたは存在を求めながら、実際には世界の物事を手に入れようとしている。


 あなたにとって世界の物事はとてもはっきりとしているように見える。それは自分の身体で感じられ、他の誰かもそれを認めることができる。そのため、あなたは物事が実体であると信じて、それが探すべき存在だと信じてしまう。だが、あなたが本当に手に入れるべきものは物事ではなく、存在そのものだ。


 世界の物事は存在を覆っている外皮でしかない。外皮は雲のように常に変化しているため、必ず失われる。あなたが外皮を求める限り、得たものは必ず失うことになる。だが、姿形がどれだけ変わろうとも、存在だけは失われることがない。


 あなたは存在を認識することができないため、物事が失われても存在は失われないということが理解できない。そのため、あなたは物事が失われると、また存在を求めて、世界の物事を探しに行くのだ。


 あなたが求めているものは間違っていない。だが、求めるものは二面性を持っている。それは外皮としての物事とその素材としての存在だ。あなたは存在を求めながら、現実的に理解できるのは外皮だけだ。これがあなたの抱えている問題だ。あなたは存在を知らなければならない。存在を認識できる目を持たなければ、いつまでもそれを理解することができず、あなたは必ず失われる外皮を求めて永遠に世界を放浪することになる。


 あなたは世界の物事を探し求める目を自分自身に向けることができる。自分自身でさえ、世界の物事のひとつだ。あなたの身体は日々変化し、思考でさえ毎秒変わっている。そこに目を向けることは、世界を求めることとそれほど変わらない。あなたが自分自身を求めることは自然なことだ。


 あなたの身体や思考も世界の物事と同じように存在という素材でつくられている。世界の物事はその外皮が失われると同時に消滅してしまうように見える。だが、自分自身の中においては、その外皮が失われても消滅しない存在を感じることができる。


 自分自身を求めることは世界の物事を求めることと同じだが、そこにおいては存在を見つけやすい状態になっている。自分の身体を超えて、思考を超えて、その先に目を向けるとき、あなたはそこに何かがあると感じ取ることができる。はじめ、そこには何も無いように感じるかもしれない。だが、そこにはひとつだけ存在しているものがある。それは「何も無い」ことを知っている知性だ。


 その知性があなたの素材である存在だ。この存在はとても見落としやすい。誰もが自分自身を探求するとき、「そこには何も無い」ということで終わりにしてしまう。宇宙の果ての向こう側は何があるのか。その答えは「何も無い」だ。物質の一番小さな物は何か。それも「何も無い」だ。そこに何も無い以上、あなたはそれ以上分析することができないと結論付ける。


 自分自身の中において、「何も無い」という状況になっても、あなたはそれを知っている知性がそこにいると気がつくことができる。その知性を消すことはできない。それを感じないようにすることはできる。だが、それは感じないようにしても絶対になくならない。


 そうして、あなたは自分自身の中の「何も無い」ところに、ひとりだけ存在しているその誰かを知る。それがあなたの究極的な素材である存在であり、探し求めていた完全な満足そのものだ。そこは世界と自分を含めたすべての統合点であり、すべての共通の起源であり、あなたが本当の自分自身として戻るべき場所だ。


 あなたはこの完全な自分自身を見つけるまで、満足できるものを求めて世界を探し続けるだろう。その探し求めることを続けていれば、あなたはいつかその対象を自分自身に移して、そこでこの統合点を見つける。あなたが世界で自分の満足するものを探す行為は間違っていない。最終的に、あなたは決して変わることのない、失うことのないものを自分の中に見つければいいのだ。


 存在はあなた自身の中にいつも宿っていて、直接見つけられることを待っている。そして、あなたがそれを見つけたとき、あなたはすべての世界の物事に宿る存在を見る目を持つことになる。あなたはその統合点ですべてが存在という素材で創造されていることをはっきりと理解するのだ。その視点で見れば、いままで求めてきた外皮としての世界の物事さえ、この存在でできていると分かる。


 自分自身が存在という素材になることで、世界の物事と素材というレベルでの密接なつながりができる。そこで初めて、すべては存在であり、すべては自分なのだと知る。それぞれがまるで違う物事のようであっても、その中ではすべてはつながっていて、分けることができないひとつの存在になっているのだ。


 世界の景色も、個人的な夢も、正しいことや間違っていることも、それらはたったひとつの素材で創られている。それらがいつか消え去ってしまうとしても、その素材である存在は消えることなく、また別の物事の素材となる。あなたはこの真実を知ることができる。


 それを知ることで、あなたは完全に満たされることができる。なぜなら、それを知ることはあなたが世界すべてになることであり、そこで何かが不足するということは起こらないからだ。あなたは世界で満たされることを求めることから解放される。


 そうであっても、あなたは世界で何かを求めるだろう。あなたが真実をすでに知っているなら、あなたが世界で消えてしまう何かを求めることはただ求めることになる。このとき、あなたは満たされる必要がなくなったため、求めるもので満たされなければならないという制約がなくなっている。もし、求めるということが自然に起こったとしても、それは満たされる必要がないことだ。


 すでに真実を知っているあなたは、世界を求めるということから真実を得る必要がなくなった。そのため求めるということは何の義務もなくなり、純粋に求めるということになる。つまりそれは自由だということだ。自分を満たすために楽しむのではなく、どんなことでも楽しむために楽しむ。あなたは楽しむことで自分を満たす必要はない。楽しんだ次の瞬間には、楽しみは楽しんだことを失うだろう。それでも存在という真実が自分から消えることはない。 


空風瞑想

空風瞑想は忘れてしまった本当の自分を取り戻す瞑想法です。瞑想の中で、今まで気が付かなかった心の新しい扉を開き、静寂でありながらも存在に満ち溢れ、完全に目覚めている本当の自分をそこに見つけていきます。そこを自分の拠り所にするとき、新しい自分の人生が始まっていきます。