15:無の境地について


かつてスピリット・ウェイカーは私にこう語った。


あなたは「無」の境地を求めて瞑想している。毎日の瞑想はそのためだ。心の中の騒がしい思考を抜けた先に「無」があり、それが自分を救ってくれると思っている。その「無」は本当にあなたを救ってくれるのだろうか。


「無」の境地になることは簡単なことではない。あなたの心の中には常に思考やイメージ、感情が渦巻いていて、そう簡単にそれらから離れることはできない。それらはあなたと一体化している。あなたは思考やイメージ、感情が自分自身だと信じて疑わないため、それらはあなたに付きまとってなかなか離れてくれない。


瞑想は思考やイメージ、感情が自分ではないと認めていく作業だ。あなたは自分と一体化してきたそれらを苦労しながら瞑想で取り除いていく。そうして心の中を静かにして、「無」の境地に辿り着こうとする。そうして騒がしい心の世界から離れて静かな場所に落ち着ければ、自分を縛り付けているものから解放され、満たされるはずだと期待しているのだ。


あなたは苦労の末に「無」の境地に辿り着く。そこであなたが目にする光景は果てしなく広がる「無」だ。そこには何も無い。そこは暗闇と空虚に支配された世界だ。何の動きもなく、何の光もない。あなたはその感覚に恐怖すら感じるかもしれない。あるいは虚しさで心がいっぱいになるかもしれない。


瞑想をして「無」の境地になれば、あなたは救われると思ってきた。ところが、「無」があなたを救うことはない。それどころか、その空虚さであなたを苦しめたり、底知れない暗闇に絶望を感じさせたりする。


そこであなたは瞑想を止めてしまう。「無」にあなたが期待したものは何もなかったからだ。あるいは瞑想をしても「無」を求めなくなるかもしれない。もっと自分を救ってくれる神秘的な経験を求めるようになる。


だが、あなたは「無」について誤解している。「無」の境地はひとつの通過点でしかない。「無」とは純粋な存在の状態であり、そこにあなたを救う何かなど初めからないのだ。ただ、そこで感覚を注意深くさせることができるのなら、そこにはひとつの「有」があることに気がつく。


「無」の背中合わせに「有」がある。それはまるでコインの裏表のようだ。そこにはいま自分が「無」という場所にいると知っている知性的な誰かがいる。その知性が「有」だ。「有」はそこにいて、自分が「無」にいることを知っている。


「有」はすべてを見ている主観点のような存在だ。主観なのでそれを客観的に見つけることはできない。この「有」を知るために心を「無」にする必要があった。心が騒がしい状態では客観的なことに認識が占有されてしまい、繊細な存在である「有」に気が付くことができない。心を「無」にすることで「有」に気づくための最適な状態になるのだ。


このことを知らずに「無」において「有」見過ごせば、「無」に失望したあなたはそこを去るしかない。そこで「有」に気がつけば、あなたは「無」であることの意味を理解する。


「有」はすべての存在になれる万能細胞のようなものだ。それがあなたの核心であり、本当の自分自身だ。それはあらゆる潜在力の塊であり、形にはなっていない豊かさで満ちている。そして、それは同時に宇宙という広大な存在をも支えている。


このことを理解するために瞑想がある。「有」が瞑想の最終的な到達点だ。瞑想にはたくさんの方法があるが、それらが到達するところはこの「有」の一点だけだ。


あなたにとっての答えはこのひとつだけであり、誰もがこの答えを探している。あなたの存在の核は「無」を通過したところにある「有」だ。あなたがこの「有」であるということは、あなたは既にすべてであり、すべてを手にしているということだ。そう知ることができれば、あなたが求めるものはこの宇宙に何もない。求めるものがなければ、あなたは満たされている。満たされることは救いそのものだ。


瞑想において、あなたは「無」という空虚さの中に「有」を見つけられるかどうかが試されている。それに気がつかなければ、あなたはまた思考とイメージ、感情を主体とする現象世界に戻るしかない。だが、その現象世界にはあなたが求める答えはない。答えがないため、あなたはまた「無」に戻ってくる。何度でもそこに戻ってくる。暗闇の虚空の中に、あなたが既にそうである本当の自分自身を見つけるまで。 


空風瞑想

空風瞑想は忘れてしまった本当の自分を取り戻す瞑想法です。瞑想の中で、今まで気が付かなかった心の新しい扉を開き、静寂でありながらも存在に満ち溢れ、完全に目覚めている本当の自分をそこに見つけます。それを自分の拠り所にすることで、人はその真実と共に蘇り、新しい自分として生きることを始めていきます。