言葉の理解を超える:瞑想哲学

悟りを語る言葉はたくさんあります。でも、言葉が悟りになることはありません。私たちは言葉をガイドにして瞑想し、その言葉を超えたところで悟りを得ます。そしてその悟りを言葉にします。悟った人の言葉は、悟った人自身にとっては真実です。でも、悟っていない人にとってはただの言葉にしか過ぎません。

賢者の言葉をたくさん聞いたり知っているからといって悟ることはありません。何かの体感覚やエネルギー感覚によって悟ることもありません。祈りや信仰によって悟ることもありません。瞑想をたくさんしたからといって悟ることもありません。神や賢者の近くにいたり触れたりすることで悟ることもありません。それが間違っているということではありません。それらによって理解することや幸せなこと、神秘的な体験は起こるでしょう。もしかすると、悟りに近い経験をするかもしれません。でも完全に悟ることはできないのです。完全な悟りとそうでない悟りの間には大きな壁があります。


悟ることは簡単ではありません。簡単ではないため、悟ることをやめてしまう人も大勢います。そうであっても構いません。悟ることを止めて他のことをしても、長い年月をかけて私たちはまた悟りに戻ってきます。私たちが最終的にどこに行き着くのかは決まっています。私たちはすべて例外なく同じ場所から生まれてきました。その後、私たちはこの広い宇宙をバラバラに生きています。でも、その生きていく流れの先には生まれてきた場所が待っています。私たちは自然に生まれてきた場所を求めて、そこに行き着きたいと願っています。ですから、どれだけ遠回りをして違う方向を歩んでいたとしても、私たちは必ずそこに戻ります。その場所はひとつしかありません。その場所が悟りなのです。


私たちは悟りへと向かうときに言葉をガイドにします。求めている場所に行き着くための言葉を探します。人の声や文字を見聞きして、その道を探していきます。私たちはたくさんの言葉に出会って、それを記憶します。でも、私たちはそこで立ち止まっています。いろいろな言葉を集めて、そのことだけで満足してしまうのです。そして、そこから動き出すことをためらい、そこに立ち止まっていられる自分に優しい言葉だけを受け入れるようになります。その結果、私たちの頭の中には優しいたくさんの言葉であふれて、それに埋もれて動けなくなってしまいました。でも、私たちはそれで安心しています。どこかの賢者の好きな言葉を思い出すだけで安心し、もう賢者と同じように悟っている気分になるからです。


悟った人の言葉は私たちを悟りへと導く役割がありますが、迷わせることもあります。私たちが言葉で悟りを完結できると思っているなら、その言葉は私たちを迷わせます。言葉は私たちを悟りへと進ませようとします。でも、私たちはひとつの疑問があります。どの言葉が悟りへと導くか分からないということです。私たちはたくさんの言葉のどれを信じればいいか悩みます。実際に賢者の言葉にはたくさんの解釈が存在し、その解釈によっては悟りとまったく違うところに迷い込むこともあります。そうなると悟りはどこかに行ってしまい、言葉だけがひとり歩きを始めます。その言葉が信じられるかどうかが第一の問題になります。もちろん、この問題は解決しません。言葉が真実かどうかはどれだけ考えても答えが出ることではないからです。


どこに悟りへと導く言葉があるのでしょうか。それは自分で探さなければなりません。何度も言葉に騙されて失敗し、そこから正しい道へと導く言葉を見つけていきます。言葉だけでは悟りは完結しません。それが悟りに導く言葉かどうかは瞑想によって確かめることができます。その言葉が正しければ、瞑想の中で真実を理解するために機能していくはずです。言葉と瞑想の体験がリンクして、言葉ではない理解が私たちに起こります。そして私たちはその言葉にならない理解を言葉にしようとします。これをどう表現したらいいのかと考えます。でも、それがどんな表現であっても、その言葉は悟りから起こったものであり、自分にとっては間違いのない真実になります。


でも、悟っていない人からすれば、それは信じるか信じないかの言葉に過ぎません。悟っていない人はその言葉から悟りを推測します。そして悟りとは何かを思考によって導き出そうとするのです。思考から悟りを導き出そうとしている限り、瞑想によって言葉ではない真実を直接的に知った人の理解に及ぶことは決してありません。言葉が真実になることは決してないのです。ただ、悟った人の言葉として、それを悟りへのガイドやヒントとして受け止めることは意味のあることです。どんなに素晴らしい賢者の言葉であっても、言葉とはそういった性質のものだと理解しておく必要があります。


私たちが完全な悟りに行き着いたとき、それは言葉では表現できません。どんなに美しい言葉の羅列もその悟りを言い表すことができません。悟り自体は完全な沈黙なのです。沈黙だけが悟りを言い表しています。それはただ黙っているわけではありません。そこから言葉が生まれ、エネルギーになり、感情になり、身体が反応し、世界を動かしていきます。世界がどれだけ騒々しいとしても、そこには沈黙があふれています。すべての動きはこの沈黙から生まれています。その意味では、どんな言葉の中にもこの沈黙があります。ただ、私たちは言葉の中のその沈黙に気が付きません。瞑想でその沈黙とひとつになったときのみ、私たちは言葉の中に沈黙があったことを知ります。それは言葉の意味ではなく、言葉自体の成り立ちから理解します。そして沈黙という言葉ではない言葉だけが真理を言い表していると知るのです。

空風瞑想

空風瞑想は忘れてしまった本当の自分を取り戻す瞑想法です。瞑想の中で、今まで気が付かなかった心の新しい扉を開き、静寂でありながらも存在に満ち溢れ、完全に目覚めている本当の自分をそこに見つけていきます。そこを自分の拠り所にするとき、新しい自分の人生が始まっていきます。