固定概念を破壊する必要性:瞑想哲学

何かが変だと直感が言うなら確かめる必要があります。変だと感じるところを探っていくと曖昧な何かがあります。そこを探ると、確かめもせずに信じていたことが、実は確かではなかったということが分かります。私たちが信じていることは本当に真実なのでしょうか。私たちが自分だと思っている自分は、本当の自分なのでしょうか。

私たちは身体や心が自分だと思っていますが、それは本当のことでしょうか。客観的に観察できるものは自分ではありません。身体も心の中の思考も客観的に観察することができます。それが観察できる対象であるにもかかわらず、私たちはそれを自分だと信じて生きています。身体が病気になれば、自分が病気になったと思い、心の中で苦悩すれば、自分が苦悩していると考えます。それはもう誰にとっても当たり前のことになっていて、突然それは自分ではないなどと言い出せば、きっと普通ではない人という目で見られることでしょう。


よく考えれば誰でも身体や心は自分ではないと分かりますが、それを自分だとしておいた方が生きていくのに便利だとは言えます。病気の自分や苦悩する自分でいた方が人に理解されやすいし、自分でもそうした方がしっくりきます。でも、そうしていると本当に身体や心が自分のように思えてきてしまいます。そうなってしまう原因は何でしょうか。それは私たちが身体や心以外の自分を知らないからです。誰もが身体や心以外の自分を知りません。だから仕方なく身体や心を自分だいうことにしておきます。もし、どこにも自分の置き所がなければ、私たちは何者でもない自分として生きていかなければなりません。そんな中途半端な状態になるくらいなら、とりあえず身体と心を自分にしておいた方がましだと思うのです。


身体や心を自分だとする生き方は上手く機能していくかもしれません。健康な身体と幸福な心で生きていければ、私たちは満足します。そこまででなくても、ある程度の健康と幸福感があれば、それでも満足です。普通に呼吸ができたり、ひと口のアイスクリームでも、私たちに謙虚さがあれば満ち足りたりするものです。でも、私たちの満足度のハードルが上がると、とても現状で満足することができなくなり、さらなる状態の向上を求め始めます。健康な身体だけでなく、もっと機能が高い身体や超人的な能力を求め、さらに長い寿命を得たくなります。心はいつでも至福の状態であることを求め、そこに影を落とすものを排除しようとします。それはどこまでも高く望んでいくため、私たちはその実現に追いつくことができなくなります。私たちはそこに到達できない自分に満足できず、苦痛を感じます。そして、あの目標に届かなければ、自分は満たされることがないという強迫観念に取り憑かれてしまうのです。


もちろん高い目標を持って生きることはいいことです。たとえそれが苦痛に満ちた人生であっても、私たちはその状況に納得することができます。そして私たちは人生でいくつかの目標を達成して満足します。周りの人からも賞賛されます。でも、身体や心は自分ではありません。どれだけのことを人生で成し遂げても、それは自分ではないのです。身体や心が自分だと思っている人は、それは自分の実績だと感じるかもしれません。それを否定することは理不尽に思えます。ただ、それらはすぐに身体や心が何かを経験したという記憶になり、達成したと思った時にはすべてが過ぎ去っています。


身体や心が経験したことはすべて過ぎ去っていきます。でも、自分が過ぎ去るわけではありません。もし、そのことに気がついたなら、私たちは自分とは誰なのかを少し分かってきています。自分とは客観的なものではなく、対象を認識している主体そのものです。その主体が主体を客観的に観察することができたないために、いままで私たちは自分を知ることなく生きてきました。それでも、主体として自分がそこにいるのは事実です。なぜなら、人生で身体や心に何が起こってきたのかを見て知っているからです。身体や心が人生でどんなことを求めようと、何かを成し遂げようと、あるいは大失敗をしようと、主体としての自分は何も求めず、何も成し遂げず、何も失敗していません。主体としての自分はいつもそこにいて、身体や心がやっていることを黙って見ているだけです。この主体としての自分が自分とされず、身体や心が自分だとされてきても、何も文句を言いませんでした。この主体の自分は確かに存在しているのですが、私たちにとってとても分かりにくい存在なのです。


もし、私たちが自分とは主体としての自分なのだと知ったなら、私たちはいままでの固定概念を破壊することができます。もう、身体や心を自分としなければならない理由はありません。いままでも、それは自分とは違うかもしれないと思いつつも、それ以外に自分を知らなかったため、仕方なくそうしてきたのです。真実を知ったなら、もうそんなことをする必要はありません。私たちは主体としての目を自分自身の置き所にします。主体の目はすべての中心にあります。そこから心が生まれ、身体ができ、その外に世界があるのを見ています。心は何かを考えます。身体は何かを感じたり、動いたりします。世界はそこで何かしらの動きをしています。自分以外のすべてが何かの動きをしていて、その中心にいる自分はただそこにいるだけです。これが真実の私たちの姿です。


私たちは自分が主体としての存在なのだと知ることで、身体と心が自分だとする固定概念を破壊します。固定概念だけを破壊しようとしても、それに代わる真実がなければ何の解決にもなりません。その考えは間違っていると言うだけではなく、それに代わる納得性のある答えが必要なのです。つまり、その答えを知ることができれば、私たちは固定概念を簡単に破壊することができます。でも、正しい答えを得ることはとても骨が折れることです。いろいろな人がこれこそ本当の自分だと声をかけてきます。そのほとんどが身体や心の変形したものであり、最初私たちはその素晴らしさに心惹かれますが、それが過ぎ去るものだと気がついて何度も失望します。でも、本当の自分は自分で分かることです。人の話を信じることではありません。自分自身で心の中に主体の目を見つけて、それを自分の拠り所とするなら、私たちはどんな人の哲学も信じる必要はなくなります。


私たちは身体と心が自分だということが固定概念だとさえ思っていません。それがあたりまえのことであり、僅かも疑うことではないと信じています。ただ、その固定概念を人生の基盤としているために、私たちはいつも何か得体のしれない違和感に付きまとわれています。たとえて言うなら、斜めの土地に家を建てて、それが斜めではないと信じて家に住んでいるようなものです。そこでどうすれば斜めのように感じる違和感を取り除けるか考えて、いろいろな場所に手すりをつけたり、滑り止めを置いたりして、住みやすくしようとします。それで住みやすくはなるかもしれませんが、土地が斜めのままであれば、根本的にその問題は解決したことにはなりません。土地を平らにするということがその解決方法です。身体や心をどうこうして自分を高めようとするのではなく、本当の自分はどこにあるのかを知ることが、私たちの根本的な問題の解決なのです。固定概念を破壊して本当の自分を知れば、私たちは真実の自分として生きていくことができます。斜めの土地が平らになれば、そこに建つ家も真っ直ぐになり住みやすい状態になるようにです。


私たちの固定概念が破壊され本当の自分を知れば、身体と心はそれが自分とされてきた重責から解放されます。そして際限のない能力向上に飲み込まれる必要はなくなります。永遠に健康で生きて、ずっと幸せな気分でいる必要もなくなるのです。身体はこの世界で自由に生きて、自由に病気になり、そして自由に死んでいきます。心は自由に歓び、自由に悲しみ、そして最期は眠るように大きな根源に同化されていくでしょう。本当の自分は死ぬことも悲しむこともなく、それをずっと見守っています。

空風瞑想

空風瞑想は忘れてしまった本当の自分を取り戻す瞑想法です。瞑想の中で、今まで気が付かなかった心の新しい扉を開き、静寂でありながらも存在に満ち溢れ、完全に目覚めている本当の自分をそこに見つけます。それを自分の拠り所にすることで、人はその真実と共に蘇り、新しい自分として生きることを始めていきます。