心の中の孤独はすべてにつながる:瞑想哲学

私たちは孤独であることを好きだとか嫌いだとか考えます。でも、孤独の問題は誰が孤独なのかを知ることです。心の中では誰でもひとりしかいません。そこは誰も立ち入れないところです。そこで自分を最高の孤独にしたとき、私たちは宇宙のすべてとつながっていることを知ります。

私たちは個人として人生を生きています。私たちにとって個人と言える存在は自分ひとりだけです。他の個人は自分ではありません。この個人だけが自分だといえる唯一の存在です。自分ひとりでいることは自由なことであり、同時に孤独でもあります。ひとりでいるとき、私たちは誰からの制約もなく自由でいられます。私たちは自由でいることが好きなので、ひとりでいることを大切にします。でも、ひとりでいることは孤独でもあります。孤独感は悲しいほど私たちの心を締め付けてくることがあるため、それを誰かとのつながりによって解消しようとします。誰かとのつながりによって悲しみが消え去れば、私たちは自由を犠牲にしてでも、つながりを維持しようとします。でも、そのつながりが制約となり、いままでの心地よさが失われていくと、私たちはまた自由を求め始めてひとりになります。そして、どれだけ孤独であってもいいから自由でいたいと心から願います。


私たちはひとりでいる時は何か足りないと思い、誰かといる時は何かが多すぎると感じます。その中間点はないのでしょうか。私たちはそれを自分の心の中に見つけることができます。それはひとりの自由で満たされ、ひとりであっても孤独ではないところです。それを見つけるために、私たちは瞑想でひとりであることを極めていきます。それは心の中で自分という存在を純粋になるまで磨き上げていきます。自分の知識や能力、権力、性格、人間関係に至るまで、すべてを削ぎ落として、自分のすべてを捨て去っていきます。心の中でそのすべてを捨て去って、それでもそこに残っているものが純粋な存在である自分自身です。


それは完全な孤独といえるところです。なにしろ自分以外には何も無いのです。ある意味、それは完全な自由です。孤独が好きな人でも、ここまで孤独を極めることはないでしょう。そこには不自由さの原因となる何の制約もありません。ただ、そこは自由ですが、自由であるというだけです。自由になっている誰かがいるわけではありません。そこには個人がいません。自由という存在があるだけなのです。その存在が個人ではないとすれば何なのでしょうか。


その存在は宇宙を作っている共通の素材です。すべての人や物がこの存在で作られています。自分の中を純粋にしていくと、私たちもこの存在で作らられているため、必ずそこに行き着きます。私たちの中の純粋な存在がこの宇宙の共通の素材だとすれば、私たちは心の一番奥で宇宙のすべてとつながっていることになります。つまり、私たちがすべてを捨て去って孤独を極めるとき、私たちはそこで宇宙のすべてとつながってしまうのです。すべてつつながることは孤独では無くなるということです。そこでは個人の人脈など比較にならないくらいのつながりが果てしなく広がっています。この自分がただひとりの存在になるところが、ひとりでありながら同時にすべてであるところです。


瞑想によって、個人の内面を極めていくと、私たちは純粋な自分という完全な孤独になります。そこで自分は個人ではなくなり、宇宙共通の存在という素材になります。その存在になったとき、私たちは否が応でもすべてとつながります。そして世界の見るものすべてが自分だということに気が付きます。知識としてそれに気が付くのではなく、世界の物事には表面上の違いがあるけれども、その内側に自分と共通の存在があると実感できるのです。この実感は瞑想していなくても不意に起こることがあります。この感覚が起こると、自分は悟ったのではないかと感じます。でも、それは一時的で、なぜそう感じられるのか理解に悩む経験でしかありません。ほとんどの場合、一種の神秘体験として個人の記憶に留められます。もし、瞑想で純粋な自分を知ったなら、それは一時的な体験ではなく、当たり前のようにいつでもそうあることになります。そうなれば、たとえ個人として孤独であっても、すべてとつながっているという事実を消し去ることはできません。


このとき、私たちが気をつけなければならないことは、すべてとつながっているのは個人ではないということです。私たちが個人を極めようとすると、最終的にそれは個人を離れて宇宙と共通の素材である存在に行き着きます。それは個人ではないのですが、このことを理解するのは個人です。個人は自分を極めようとして個人を失い、個人を失うことで自分を知るのです。これはややこしい状況ですが、この仕組を理解しておく必要があります。これを理解していないと、まるで宇宙は自分個人の所有物になるかのような誤解を生み出します。あるいは宇宙で一番の知識を持った個人としてレベルの高い人間に進化したと勘違いします。私たちは個人として宇宙征服を企んでいるわけではないのです。宇宙を手に入れることはできますが、そのときそこに個人はいません。誰も宇宙を手に入れることはできませんが、私たちは存在として宇宙そのものになっているのです。


宇宙はひとつという言葉は真実ですが、個人として宇宙を見た時にはすべてが分離しています。宇宙の物事は無限に枝分かれしています。私たちはその多様化したものの集合体が宇宙だと思っています。個人はその宇宙の中のひとつの生成物であり、私たちは自分を他とは違う独立した存在だと認識します。その独立した存在はいろいろな質を持っています。その質は他の質と異なっているので、自分と他人は違うと感じるのです。そして人間関係においてあの人は好きな人であり、この人は嫌いな人というように選別するようになります。でも、私たちが最も嫌う人でさえ、その中は存在という共通の素材でできています。つまり、その人は自分で出来ているということです。どんなに嫌いな人でもその本質は自分そのものなのです。それは自分ですが、個人というところから見ると、その人は個人としての自分を騙そうとしたり、貶めようとしたりするかもしれません。同じ素材だからといって、個人に対して仲間のように振る舞うわけではないのです。もちろん、個人として私たちはその人に対して適切に対処する必要があります。同じ存在なのだからという理由で、嫌いな人を無理やり好きになる必要はありません。


こう言うと、それでは自分が個人であるときと変わらないのではないかと思うかもしれません。そこに何か違いはあるのでしょうか。自分が個人だと思っている時にはすべてが分離していますが、自分が存在だと思っている時にはすべてが同じ存在だと知っているというところが違います。個人としては合わないところがある相手でも、その相手も存在でできていて、それはすべてとつながっている事実があることを尊重します。簡単にいえば、物質レベルでは分かり合えないけれども、意識レベルではつながり合っているということです。どんな人も個人としての質を持っています。それは宇宙が多様化するという性質があるため当然のことです。私たちがひとつの存在であると知っていれば、そんな多様化した宇宙の性質を尊重することができます。その性質のすべてはひとつの存在という素材で作られていると知っているのですから、多様化して違いがあるとしても、それを否定も排除もする必要がないのです。


私たちの人生には様々なことが起こります。それはいいことばかりではありません。どんなに瞑想をしていても、不快なことは起こり続けます。私たちはできるだけ不快なことが起こらないようにと願っています。そのために考え方を改めたり、神様に祈りを捧げたり、自分の言動に気をつけたりします。それでも完全に不快なことを取り除くことはできません。予期しないことなど、いくらでも起こります。でも、すべてが自分という素材でできていると知っているなら、不快な出来事も尊重できます。なぜそれが起こったかはわからないけれども、それが自分と同じ存在でできていることは確かなのです。それは私たちの心の奥でつながっていて、断ち切ることなどできません。できることは起こることをすべて尊重するということです。どんな最悪なことでも、個人としてそれを受け入れ、それに対処し、最善を尽くします。その結果がどうあれ、それはすべて自分なので起こることを尊重します。私たちが自分は存在だと知っていれば、たとえどん底の人生だとしても、何も失うものはありません。宇宙のすべてが自分なので、そこで増えたり減ったりすることはないのです。私たちは起こることがすべて自分だと知って、分離している個人として生きていきます。


自分ことを悟っているかどうかは外見や性質からは分かりません。悟りとは誰かに評価してもらうためのことではないので、ただ自分でそう知って生きていけばいいだけのことです。すべてを尊重するという生き方を誰かに押し付けることは意味がありません。自分とは心の中の純粋なひとつの存在であり、それはすべてとつながっていると自分自身で知ることが大事です。それを知らなければ、どんなに素晴らしい哲学や思想でも、何の意味もない、都合のいい時だけに発動する形だけのものになってしまいます。


私たちは心の中ではたったひとりです。これは誰でも確かめられる事実です。でも、そのひとりであることを極めたなら、私たちは宇宙すべてとつながります。たったひとりでありながら、すべてでもあるという状況になります。私たちはそんな存在でありながら、個人という目を通して、自分で作られた世界を眺めています。これはとても奇妙なことであり、物理的に説明がつかないことかもしれません。説明がつかないことでも、私たちは瞑想でそれが真実だと知ることができるのです。

空風瞑想

空風瞑想は忘れてしまった本当の自分を取り戻す瞑想法です。瞑想の中で、今まで気が付かなかった心の新しい扉を開き、静寂でありながらも存在に満ち溢れ、完全に目覚めている本当の自分をそこに見つけます。それを自分の拠り所にすることで、人はその真実と共に蘇り、新しい自分として生きることを始めていきます。