それが悟りかどうかを知るには:瞑想哲学

私たちが悟りを目指すなら、何が悟りなのかを正確に把握しておく必要があります。そうしなければ、間違ったものを悟りだとするかもしれないし、目の前にある悟りがあるのに見逃してしまうかもしれないからです。

本当の自分を知ったときに何が起こるかということは、そのときになって自分で感じればいいことです。でも、自分を知るということに向かっていくためには、そこで何が起こるかを知っておかなければなりません。それを知らなければ、間違って本当の自分を理解してしまうかもしれません。ただ、言葉での情報には限界があり、そこで何が起こるかを正確に伝えることはできません。言葉はガイドに過ぎないということです。旅行のガイドブックをいくら読んでも旅行したことにならないように、実際の旅行ではガイドブックに書かれている以上のことが起こるものです。


本当の自分とは純粋な知性のようなものです。瞑想をして自分の根源を辿って行くと、その知性に行き着きます。そこに行き着くことが悟りです。それ以外は悟りではありません。ただ、私たちは個人として自分の根源を辿っていきますが、その根源にいる知性は個人ではありません。個人ではないので、厳密に言うと、それは個人が悟るということではありません。ただ、個人と知性が融合して自分の中に悟りが起こるのです。


悟りとは身体や心が自分なのではなく、ここに存在している知性が自分なんだと知ることです。それは新しい自分が誕生するのではなく、自分とはずっとそこに存在していた知性だったと認識することです。それはちょうど焦点がそこに移るというだけで、悟ったからといって自分の全体像の何かが変わるわけではありません。個人と知性の境目さえ、そこにはありません。ただ、個人としてそれを知りますが、それを知ったとき個人ではなくなっています。そのため、私たちは悟ると、自分が個人でなくなってしまったことに戸惑い、無理やりその知性を個人に持ち帰ろうとします。でも、それを個人の経験にしたとたん、悟りは失われてしまいます。


私たちが悟ることは「自分は存在という知性だ」ということです。この知性は性質というものを持っていませんが、個人から見るといろいろな性質があるように見えます。そのひとつが愛です。それは絶対的な愛ですが、悟りを愛という言葉にして個人化したとたんに、それは相対的な体験になって増えたり減ったりするものになります。そして愛とは反対の憎しみという抵抗勢力を創り出し、愛を保つためにそれと闘うことが起こります。自由と言う言葉も、満たされると言う言葉も同様の結果をもたらします。悟っている立場からは、それを愛や自由、満たされることだと話をするかもしれません。それは間違いではありませんが、悟っていない立場からすると、それは個人的な体験であり、増減し、反対の概念と闘うことと捉えられてしまうのです。その結果、悟りは誤解され、曲解され、その本質を失うことになります。


私たちは悟りを愛や自由、満たされることといった概念で表現しようとしてきました。これは悟っていない立場で受け取ると誤解が起こる結果となります。では、私たちはそれが本当の悟りなのかどうかをどうやって確認すればいいのでしょうか。いままで私たちは世界で理解できる概念を使って悟りを表現しようとしてきました。たとえば悟りを愛と表現したなら、それは世界の中で誰かを愛することだと捉えます。そのように悟りを外の世界に持ち込むと、どうしても誤解が生まれてしまいます。もし、悟りを自分の心の中だけで直接確認することができれば、それが悟りかどうかを見誤ることはなくなります。


悟りとは「自分は知性という存在だ」と知ることです。その存在には八つの条件があります。それを私たちは自分の中で確認することができます。ひとつ目は「ひとつであること」です。その存在は世界の多様性とはまったく逆の方向にある、すべてに共通する根源です。この宇宙も含めて、すべてはたったひとつから創造されました。もちろん、私たちもそのひとつから生まれてきました。自分の根源をたどっていけば、誰もがそのひとつの存在に辿り着きます。もし、それが幾つもの感覚に分かれるものなら、それは悟りではありません。それが決して分割できない「ひとつ」だと表現できる存在であれば、私たちはそれを悟りだと言うことができます。


ふたつ目は「変わらない」ということです。存在は増えたり減ったり、なくなったり現れたりすることがありません。いつでもそこに同じ状態であって変わることがありません。たとえ自分が幸せであっても、不幸であっても、そんな自分の人生の状況や精神状態がどうあろうとも変わりません。存在はエネルギーの一種ではありません。存在が特別な何かのエネルギーだとするなら、「変わらない」という条件に合致しません。エネルギーは必ず変化します。存在はエネルギーを内在している無エネルギーの状態です。でも、それは完全な無でもありません。賢者たちも言っていますが、それはエネルギー化していない「有」の状態です。瞑想して、自分とは変わらない存在だと認めることができるなら、私たちはそれを悟りだと言うことができます。


三つ目は「いつでも在る」ということです。存在は流れていく時間に影響されることがありません。時間によって老化したり、失ったりすることがありません。たとえ私たちが瞑想中に何かを考えていたり、夢の世界で踊らされたりしても、存在は失われているわけではありません。生まれたての赤子のときでも、百歳の老人になっても、それはいつでも自分の近くにいて、決して離れることがないのです。瞑想中にそこに戻ろうと思えばいつでも戻れます。存在はいつでもそこにあると認められたとき、私たちはそれを悟りだと言うことができます。


四つ目は「同じである」ということです。それは誰にとっても同じ存在になります。もちろんそれは自分でしか確認できませんが、それは誰にとっても同じで、自分と誰かの存在が違うことはありません。すべては存在によって創造されていて、それ以外で創られたものはこの宇宙にはないということです。この宇宙の創造物すべてに共通なことは存在しているということです。その姿形は多様性にあふれているかもしれませんが、その中身はすべてこの存在で創られているのです。その存在を知れば、「すべては平等である」というブッダの言葉を理解することができます。私たちがすべて同じ存在だと認められるとき、私たちはそれを悟りだと言うことができます。


五つ目は「どこにでも在る」ということです。その存在は自分の心の中に在るだけでなく、宇宙の果てにも在ります。宇宙のすべてがこの存在でできていて、宇宙全体に浸透し、なおかつ宇宙を包んでいます。私たちはどこにいてもこの存在を失うことはありません。私たちが都会にいようが山奥にいようが、それで存在が無くなったり現れたりすることはないのです。それは私たちの見るものすべてが同じ存在で創られているということを意味します。つまり、それはすべてが自分だということです。もし、悟っているなら、私たちが世界の何かを見るとき、そこに必ず自分を感じます。私たちの存在がそこにある限り、世界のあらゆるところに自分の存在があります。世界には多彩な表面的形態がありますが、それにはすべて存在が内在しているのです。私たちは表面的な形態にとらわれて、それが何によってできているのかを知ろうとしませんでした。それは自分ではない世界の何かだと思ってきたのです。私たちが悟ったならリアルにその存在が際立ってきます。私たちが存在という目で見るとき、その見られたものの中の存在とつながるからです。


六つ目は「偏りがない」ということです。存在はどこかが薄くて、どこかが濃くなっているということはありません。それは完全に均一です。世界は濃淡が在るように見えます。でも、存在は強弱がないため、均一でしかいられないのです。ですから、誰かが特別に存在が濃いとか、まだ薄いままだとかいうこともありません。それが高いことも低いこともなく、つまり幸福であるとか不幸であるとか、成功とか失敗とかもありません。そういった偏りの概念は悟りとまったく関係がありません。もし、幸福で成功して高い自分になることが悟りだとするなら、それは見当違いなことです。純粋な存在だけを目指して行って、それが均一でどこにも偏りがないものだと知ったとき、その理解が悟りになります。


七つ目は「始まりも終わりもない」ということです。私たちはこの身体が生まれた時が自分の始まりだと思っています。でも、存在というレベルには始まりも終わりもありません。それは完全に静止しているので、時間に影響を受けることがなく、時間の発生源として静止したままです。私たちの存在は時間を超越していて、いつでも宇宙が始まる前の状態でいるのです。私たちは自分の外に宇宙の起源を探求するかもしれません。でも、それは私たちの中にあります。私たちの中に宇宙の起源があって、それは失われたことがありません。この身体が失われても、個人という意識がなくなったとしても、私たちは時間を超えて存在し続けます。私たちが存在は宇宙の時間を超えて存在するものだと知ったとき、その理解が悟りになります。


八つ目は「性質がない」ということです。存在には性質がありません。そのためどんな性質にもなれます。宇宙の多様性はその素材である存在に性質がないからこそ可能になります。私たちは個人の性質を自分だと思って大事に育ててきましたが、実は性質がないということが私たちの本質です。私たちの本質が無性質なため、私たちは個性的な個人になることができ、個人としての無限の可能性が与えられているのです。でも、多くの場合、私たちが存在を探求するとき、何かの特別な性質を見つけようとします。何かの高貴な性質が存在だと思うのです。私たちがそうすることから離れられないなら、いつまでも存在に行き着くことはできません。存在を知るためには、そういった自分の中の性質すべてを切り離さなければなりません。これが個人にとって、とても難しいところです。自分の本質は何の性質もないというところまで掘り下げていって、はじめて私たちは悟りの境地を知るのです。


私たちが瞑想で自分自身の存在を悟ろうとするなら、こういった存在の条件を知っておかなければなりません。これらの条件にひとつでも合致しないものがあるなら、それはまだ自分の本質に辿り着けてないということです。私たちは悟りについて中途半端な理解で妥協することなく、それが確かだと断言できるまで突き詰めていく必要があります。そうしなければ、悟りはただの想像物に過ぎなくなり、いつか世界の変化の中で壊れていくでしょう。私たちがこういった条件に合致する存在になると、そこで知識を超えた理解が起こります。それは誰からか聞いた話や空想的な哲学ではありません。それは個人的なことではないため、何かの知識を記憶することとも違っています。無自覚であったり、個人的な体験であったり、時空を超えて光の中に蘇ることでもありません。私たちの根源に存在する知性は沈黙を保つことでそれを理解します。その知性自体になることが悟りであり、それは言葉で表現できないことなのです。

空風瞑想

空風瞑想は忘れてしまった本当の自分を取り戻す瞑想法です。瞑想の中で、今まで気が付かなかった心の新しい扉を開き、静寂でありながらも存在に満ち溢れ、完全に目覚めている本当の自分をそこに見つけます。それを自分の拠り所にすることで、人はその真実と共に蘇り、新しい自分として生きることを始めていきます。