精神と現実との溝を埋める方法:瞑想哲学

人を愛するという精神性は誰もが大事だと知っています。でも、現実にはすべての人を愛することはできません。すべての人を愛することができなければ、愛が大事だという精神は偏りのある理想論になってしまいます。私たちの理想とする精神性と現実との間には否定できない溝があります。その溝は誰でも埋めることができます。ただ、その溝を埋めるためには理解しなければならないことがひとつだけあります。

私たちは自分の精神性を大事に思っています。自分の高い精神性が人生に大きな影響を与えると知っているからです。でも、私たちは現実を生きていかなければなりません。現実は私たちの高い精神性を揺るがします。その精神性と現実との間には何か大きな隔たりがあって、私たちはそこを埋めることができません。例えば、すべてに愛をもって接することが大事だと知っていても、どうしても愛することができないことがあります。そこには許せないという憎しみがあり、そう憎むことが自分にとって正しいことだと思っている現実があるのです。この現実が私たちの中にある限り、私たちはすべてを愛することは不可能になります。この現実と理想とする精神性との間の溝は私たちの心を揺るがします。そして、すべてを愛するなんてことは精神性の理想論であって、現実には実現不可能なことで、憎むことも自分の現実として受け入れていかなければならないと考えます。でも、そう考えつつも、自分にはすべてに愛を与えたいのにそうすることができないという葛藤を抱えていて、そんな自分に後ろめたさを感じています。


理想とする精神性と現実が違うのは当たり前です。そもそも人の感情を均一にすることなどできないのです。では、すべてを愛するといった不可能なことを実現したいという精神性はどうして生まれてきたのでしょうか。それを現実に可能にした人がいるのでしょうか。私たちは実際にすべてを愛するという不可能なことに挑戦してきました。でも、その挑戦はことごとく失敗してきました。それでもその挑戦自体に意味があるのだと考え、挑戦してきたことをポジティブに捉えようとします。人の感情が均一の状態になることはないという現実の中でも、愛するという均一の状態を作っていこうとひたむきに取り組むことが、他の人の中に愛を呼び覚ましていくこともあるのです。それは不完全で頼りないものかもしれませんが、何も無いよりはマシなはずです。私たちは自分が完全だとは思っていませんから、実際にすべてを愛するなどといった高潔な精神性が自分に実現するとは思っていません。すべてを愛することはできないながらも、そうして少しでもそこに近づければいいくらいに思っています。


でも、すべてを愛するという精神性と特定の人しか愛さないという現実はどうしても同じにはなりません。すべてを愛するということに近づくことができたとしても、それは近づいたというだけで、厳密にはその精神性の完全な実現にはならないのです。むしろ、すべてを愛することを理想としている限り、私たちはそこに至らない苦しみを抱え続けることになります。この苦しみを抱えていると、精神性の理想など追い求めないほうがいいのではないかと思ってきます。愛する人を愛して、憎む人を憎むという方が人として自然な気がします。そうすれば、私たちは変な葛藤を心の中に抱えて苦しむことなく、特定の人に対する愛だけは持ちつつ晴れ晴れと生きていくことができます。


では、すべての人を愛するということはただの理想論なのでしょうか。誰も実現したことがなければ、それは理想論でしかありません。でも、古い時代の賢者たちはそれが可能だと言っています。賢者たちはそれを実現したのです。どうやってすべてを愛することを実現したのでしょうか。それは愛を実現する前に、瞑想して自分自身を知ることで実現しました。私たちは自分を個人だと思っていますが、その個人の根源は個人を超えた普遍的な意識です。瞑想の中で自分の中心に向かって行くと、どこかの境界で私たちは個人ではなくなります。そして個人でなくなる代わりに、私たちはひとつの意識になります。私という感覚は個人が発しているのではなく、その根源の意識が発しているのだと知ります。その意識は特定の個人という枠が外されていて、すべての存在の共通の根源になります。この自分の根源を知って、それが自分なのだと完全に理解したなら、私たちはすべての存在になります。表面上の姿形はそれぞれ個別の存在かもしれませんが、その心の奥はひとつだと知るのです。このとき、私たちがこの自分自身を愛するなら、すべてを愛することになります。


実際に私たちはこの根源の存在を愛しています。それがなければ自分という個人が存在できないからです。それは私たちの唯一の拠り所であり、私たちを魅了する世界の美しさや愛する人が存在するための基盤でもあるのです。それを愛せずにいったい何を愛するというのでしょうか。この自分の根源を愛するということは、すべてを愛するということです。ここで私たちはすべてを愛するという精神性を完成させます。賢者たちは正しかったのです。でも、私たちは個人を失ったわけではありません。自分にはこの身体や心があります。その個人という視点で世界を見るとき、私たちは誰かに憎しみを感じざるを得ないことに遭遇します。私たちがすべてを愛する精神性を極めたとしてもこの現象は起こります。私たちが個人的な視点にいるとき、そこに愛とは正反対の憎しみがあることは否定できない事実です。でも、根源の存在からの視点では、この身体や心を愛していて、そこに起こる憎しみという感情さえ愛しています。それはすべて根源の存在から発生したものであり、それは愛する自分そのものでもあるのです。もし、私たちが根源の視点との統合を失うことがないなら、その愛は微塵も揺らぐことはありません。


このように話すと、現実に憎しみがなくならないなら、結局は個人でいるときと同じではないかと思うかもしれません。確かに憎しみという感情はなくならないかもしれませんが、それを見ている視点が違っています。個人でいる時は憎しみと自分が同化しています。でも、根源の存在からの視点では、それは憎しみというエネルギーが現れたことを客観的に見ています。もちろん憎しみは自分自身から起こったものなので、他人事でないばかりか、それが自分自身だともいえます。それでも、私たちがその状況を知っているということで、個人と同化した憎しみとはまったく違った立場にいるのです。そのため根源の存在は憎しみを愛することが可能になります。憎むことを愛するとはどういうことなのでしょうか。それは憎しみが消えるということを受け入れるということです。もし、憎しみが個人と同化しているなら、その思いは個人からエネルギーを得て、ますます強くなっていくでしょう。でも、根源の存在から見る憎しみは、拠り所となる個人のエネルギーがないため消滅していきます。消滅して、愛そのものである根源の存在に吸収されていきます。私たち自身が存在の根源であると知るなら、憎しみにはこういった現象が起こります。


私たちには理想とする精神性と現実との溝があることを知っています。その溝が埋まらない限り、私たちは人間として完成されないことも知っています。完成しないということは、生きている上で精神性と現実に何かしらの軋轢や抵抗を感じて、それに苦悩しながら生きていくということです。私たちはこの溝を埋めるまで、どちらを優先するかといった自分の内面で起こる戦いに明け暮れなければなりません。でも、私たちにとっての問題のすべては、そこに溝があるということだけです。私たちの人生の問題はとてもシンプルなのです。その溝さえ埋まってしまえば、私たちは人間として完成し、新たな視点で物事を見ることができます。それは精神性の教訓に従って、それを忘れないように自分に言い聞かせることではなく、自分でそういうことだと目の当たりにして、自らそれとひとつになることです。それを現実にするのが、瞑想で自分の根源を知ることなのです。愛するとか憎むとかといった解決不可能なことを問題すにする前に、私たちは自分の根源を知って、精神性と現実の溝を埋めることができます。そうすることで、私たちはすべてを愛するといった精神性を現実的に実現することができるのです。

空風瞑想

空風瞑想は忘れてしまった本当の自分を取り戻す瞑想法です。瞑想の中で、今まで気が付かなかった心の新しい扉を開き、静寂でありながらも存在に満ち溢れ、完全に目覚めている本当の自分をそこに見つけていきます。そこを自分の拠り所にするとき、新しい自分の人生が始まっていきます。