瞑想で自分が変わること:瞑想哲学

瞑想は本当の自分を示してくれる光のようなものです。私たちが本当の自分を知りたいと思わなければ、その光は無駄になります。いまは本当の自分に興味がなくても、いつか私たちが本当の自分を知りたいと思って、その光に向き合う時が来ます。本当の自分を知るためには、ひとつだけ捨てなければならないことがあります。私たちはそれを捨てることができないために、そこで本当の自分を知る機会を見送ってしまいます。


私たちは自分が個人だという誤解を解かなければなりません。瞑想はそのためにあります。瞑想を始めようと決断するのは個人です。個人はより良い個人になりたいために瞑想を選択します。瞑想することで、幸福が舞い込んできたり、健康で若々しくいられたり、特別な能力を身につけたり、自分の望む人生を生きられることを期待します。瞑想をすればそんなことが実現すると思うのです。


でも、それらのことはこの世界が常に移り変わっているため、たとえ実現したとしても、いつまでも幸せでいたり、健康でいたり、特別な能力を身につけたり、自分の望む通りに生きられるわけではありません。加えて、何十年瞑想していても、必ずそういうことが起こると保証されているわけでもありません。そうしていつまでも自分の望むことが起こらないと、私たちは瞑想をやめてしまいます。瞑想以外にも、幸せになったり、健康になったりする方法は世界にいくらでもあるのです。これが個人が望む瞑想の限界点になります。


たいていの場合、期待することが起こらないという時点で瞑想を終わりにしてしまう人がほとんどです。でも、瞑想の潜在力はそういった個人の願望を叶えることではありません。個人はそのつもりで瞑想を始めるかもしれませんが、瞑想の究極的な目的は本当の自分とは誰なのかを知ることだけです。それ以外のことは、単なる副産物に過ぎませんし、それが起こるか起こらないかについても、本当の自分を知るという目的からすれば問題にならないことです。私たちが瞑想を続けるためには、私たちの意識が個人としての望みを超えて、本当の自分を知ってみたいと思わなければなりません。これが瞑想を続けるかどうかのひとつの分岐点になります。それは瞑想だけでなく、私たち自身の人生を左右する大きな選択になります。


本当の自分とは誰なのでしょうか。私たちは本当の自分など知らなくても生きていけます。実のところ、私たちは自分とは身体と心が一体化した個人だと思っています。そのことに疑問を持っていません。そのため、本当の自分は誰なのかということに興味がありませんし、瞑想で本当の自分を知ることができると言われてもピンと来ないのです。でも、身体と心が自分だとしているととても苦しくなります。そこには身体の苦痛があり、心の悲しいカルマを背負っていかなければならない状況があり、私たちはこの問題の解消に取組んでいかなければなりません。私たちはこの問題に対する取り組みで、一定の成果を上げるかもしれません。身体を健康にして、心からカルマを取り去ることに成功するのです。でも、それは一時的なことに過ぎません。私たちが自分とは身体と心だと信じ込んでいる限り、問題は次々に起こり、それらから逃れることはできないのです。


この状態を根本的に解決するためには、本当の自分とは誰かを知らなければなりません。本当の自分とは個人ではありません。個人ではなく普遍的な存在と呼べるものです。それが私たちの中心に位置していて、自分という個人を形作っています。でも、私たちは個人から普遍的な存在へ変化することに抵抗があります。私たちはどうあっても個人でいたいのです。自分が個人でなくなってしまえば、恐ろしいことが起こるのではないかと思っています。私たちは最高の個人になりたいと望んでいるだけで、それを超えて普遍的な存在になりたいとまでは思いません。瞑想はこの個人の壁を超える力を持っています。これが瞑想本来の潜在力なのです。でも、個人はそのことに躊躇しています。この瞑想の潜在力を使うかどうかは、私たちが個人という壁を超えたいかどうかの選択にかかっています。


私たちが瞑想をして、個人の壁を超えて普遍的な存在になったとき、自分はどうなるのでしょうか。私たちは普遍的な存在になったため、カルマを背負うことがなくなります。カルマは個人に依存して張り付いているものです。個人が無くなれば、カルマは依存するものがなくなり自然に消滅します。私たちは身体を超えて存在するので、身体が健康であろうと病気であろうと、どちらの状況でも自分でいることにまったく影響を受けません。そして、普遍的な存在は宇宙の変化から離れていて、それそのものとして完全なので、何かが不足するということがありません。つまり、いつでも満たされているということです。これが普遍的な存在としての自分の姿です。


普遍的な存在であることは素晴らしいことのように思えますが、実際にはとても地味なものです。いままで目まぐるしく変化する世界の中で生きてきた個人としての自分にとっては、物足りなく思えるかもしれません。私たちが普遍的存在になったとき、何の動きもなく、何の意志もなく、そこでただじっとしていることに耐えられなくなってきます。それに普遍的な自分はつかみ所がなく、ただ在るというだけしかありません。身体や心はとてもはっきりしていました。身体としての感触や心の中で思考する言葉は実感があります。そこで退屈して何かの刺激が欲しくなれば、私たちは普遍的な自分を捨てて、また個人としての自分に戻ろうとするでしょう。実際に普遍的な自分に完全融合する前であれば、そういうことは何度でも起こり得ます。


私たちが個人を超えて普遍的な存在へとアセンションするためには、教えや瞑想だけでは難しいところがあります。そのためには個人が普遍的な存在になるために成熟する必要があります。教えはそのためのガイドになりますし、瞑想は個人に真実を示し続けることで、そこから私たちは何かを学んでいくでしょう。そしてある日、私たちは個人という壁を超えて、普遍的な存在になり、そして完全にそれと融合します。そのとき、私たちはこのことがとても地味であることの意味を知るのです。実際にはそれは地味などころか、個人が想像する以上にダイナミックなことです。そこに私たちが求めていた完全な静寂や不動であること、偽りのない自由や愛があることを知ります。私たちはそれらを世界に求めていましたが、すでに自分自身がそれだったのです。


そして、私たちは個人を失っても、実際には何も変わっていないことに気が付きます。私たちは瞑想によって普遍的な存在になったのではなく、はじめから普遍的な存在だったと知るのです。私たちはいつもこの普遍的な存在から世界を眺めていました。それを身体や心が見ていると勘違いいていただけでした。個人と普遍的な存在の間には壁などもなく、世界のどこにも分離がないと知ります。分離がないため、私たちは自由に個人になることもできます。個人になって、身体の痛みを感じ、心に悲しいカルマを背負ってもいいのです。それは普遍的な存在を捨てて、個人的な存在に戻るということではありません。私たちは普遍的な存在として完全に融合しています。でも、その普遍的な存在が個人を作り上げていたのです。ですから、個人であったとしても、普遍的な存在から離れることはありません。


瞑想は私たちを普遍的な存在へと導いてくれます。自分が個人だと思っている私たちにとって、それを理解することは簡単ではありません。納得がいかないことも、疑問に思うこともたくさんあります。でも、それは私たちが成熟するために必要な過程です。最終的に、私たちは普遍的な存在になっても、何も変わらなかったということを知ります。ただ、個人という目からは見えなかった世界を見ることができ、その目でもって世界がいかに自由と愛にあふれているかを知るのです。 


空風瞑想

空風瞑想は忘れてしまった本当の自分を取り戻す瞑想法です。瞑想の中で、今まで気が付かなかった心の新しい扉を開き、静寂でありながらも存在に満ち溢れ、完全に目覚めている本当の自分をそこに見つけていきます。そこを自分の拠り所にするとき、新しい自分の人生が始まっていきます。