自分の原点に戻るとき:瞑想哲学

自分探しはこの世界の中で行われるものではありません。それは自分の心の中で行われます。瞑想をして、そこで自分とは誰なのかを知ることが自分探しです。自分が誰なのか知ったとき、そこで自分探しは終わります。そして世界で自由に生きていくことができるようになります。

自分探しの旅は若いときの苦い思い出でしょうか。結局、どれだけ世界を探してみても、特別な自分などどこにも見つからず、私たちは世界の流れの中に埋没する何の変哲もないひとりの人間として生きていくことを受け入れます。そして、これでよかったのだと思います。いまでは、世界でいかに安心して生きていけるか、周りからはみ出ないようにするかが、私たちの人生のテーマになっています。


どれだけ自分は人と違うのだと頑張っている人でさえ、大きな人の集団である社会という枠組みに守られて生きています。自分がいままでの枠組みを超えた存在として生きていくと決めた人でさえ、そこに特別な自分などいなくて、普通に社会に生きる小さなひとりとして生きています。その現実は私たちに自分の無力さを感じさせることかもしれません。でも、いままでの枠組みを超えて生きようと試みることはいいことです。そういう人が人間社会に何かしらの進化をもたらします。


いままでの社会の枠組みを超えて生きていこうと試みることはいいことですが、実際にそう実践した場合、そのほとんどが失敗に終わります。もし、それが成功するなら、それはどこかで社会に媚びているところがあったり、人に擦り寄って自分の生き方を曲げているのかもしれません。そういった妥協の産物はどこか中途半端で、自分も納得していないため、そのことへの息苦しさを感じ続けることになります。それは社会に進歩をもたらすこともないでしょう。実際には、極貧のうちに孤独なまま死んでいくくらいの覚悟がないと、自分独自の生き方を貫くことなどできないのです。


私たちはそんな悲惨な状態にはなりたくないので、人と違う生き方をしようとしても、次第に自分の生き方を社会に合わせ、世間一般に認められる範囲で自分の望む生き方をしようとします。大きなリスクを抱えて特別な自分になどなる必要はないということが、ほとんどの人にとっての最終的な答えです。それはそれでいいことです。すべての人が自分勝手に好きなように生きたなら、この社会は混乱してしまうでしょう。そんな突拍子もない生き方を抑えようとすることは間違いではありません。


でも、もし私たちがそんな生き方を選択するなら、自分らしくないという抑圧を抱えながら生きていくことになります。死ぬ間際になって、なぜあのときそうしなかったのかと後悔することになります。もし、自分らしく生きていこうとすると社会に受け入れられず失敗して、孤独の内に虚しく死を迎えるかもしれません。どちらにしても、私たちは本当に望んでいた自分を見つけることもできないし、それで完全に満たされることもありません。


私たちが自分らしい自分を探し出して、その自分として生きていくことは不可能なのでしょうか。それは可能なことです。いままで私たちは自分探しを社会という限定された場所で考え過ぎてきました。私たちは社会という枠組みを超えた自分を探したかったのですが、それは社会の中で見つけられるものではなかったのです。私たちの社会における立場は、名前であったり、学歴や職歴であったり、知識や能力、人柄だったりします。そういった条件を軸にして考えている限り、自分探しの突破口は開きません。それは社会という外側ではなく、自分自身の内側に存在するものだからです。


私たちはどんな自分になりたかったのでしょうか。自由に好きなことをしながら、いつでも満たされている自分でしょうか。それは社会の中にあるような気がしますが、残念ながらありません。それを見つけたとという人でさえ、好きなことがほんとうに好きなのか分からなくなり、自由だと思ったことがだんだんと不自由になり、満たされてたはずが喪失が多くなっていきます。そうすると、いままで自分のことをどれだけ素晴らしいと思っていたとしても、だんだんと自信がなくなっていきます。


私たちは、自分とは名前が付いているこの身体と心の中の考えだと思っています。自分の生きている世界がこの社会なのだと思えば、それを自分とすることは間違いないことです。それでは、その自分の原点はどこにあるのでしょうか。私たちは自分でこの身体や心を作ったわけではありません。それは誰かが作ってくれたのです。誰かが作ってくれたものを私たちは自分と呼んでいます。でも、どこかで自分とはそんな作りものではないとも感じています。それは私たちが心の中で自分はここにいるという自覚を持っているからです。この自覚は作り物ではありません。私たちはこの自分自身についてのギャプをどうにかして解決しなければなりません。そのためには瞑想をして自分の心の中にある未知なる原点をはっきりと見つける必要があります。


私たちは自分自身とは誰なのかを明確に知らなければなりません。これが本来の自分探しの旅です。その旅は瞑想をしながら心の中で行われます。社会でどんな生き方をするかはこの自分探しにまったく関係ありません。社会での生き方を探すことは大切なことですが、それは本当の意味での自分探しの旅ではないのです。その社会での自分の生き方は死ぬまで確定することがありません。でも、この心の中の自分探しの旅は明確な終着点があります。それは誰にとっても同じ終着点です。私たちは変わることのない自分の原点を瞑想ではっきりと見つけることができるのです。


この自分の原点を探すことは、社会でどんな仕事をしていてもすることができます。一日の大半を瞑想して自分探しに費やす必要はありません。私たちは、たとえ一日中社会の中で自分を探して、人生の生き方の質をどれだけ高めたとしても、自分自身の原点を見つけることはできません。それは本来の自分探してはないし、それを自分探しというなら、私たちは社会の現実の中に埋没することが自分なのだという結論しか導き出せないでしょう。もし、日々の数十分の瞑想によって心の中に自分の原点を見つけたなら、私たちの自分探しの旅は終わり、自分を探すことから解放されます。そして、そこからすべての時間をこの社会で自由に生きることに使えるようになるのです。

空風瞑想

空風瞑想は忘れてしまった本当の自分を取り戻す瞑想法です。瞑想の中で、今まで気が付かなかった心の新しい扉を開き、静寂でありながらも存在に満ち溢れ、完全に目覚めている本当の自分をそこに見つけます。それを自分の拠り所にすることで、人はその真実と共に蘇り、新しい自分として生きることを始めていきます。