ノンデュアリティの先へ:瞑想哲学

ただひとつの存在だけがあることがこの世界の実相だという人がいます。それは真実なのかもしれません。では、この相対的な世界はいったいなぜ生まれたのでしょうか。この事実を知るためには、自分の心という宇宙を探索しなければなりません。自分の中にあるひとつの存在に辿り着いたとき、私たちはこの謎を解くことができるでしょう。

自分と宇宙はひとつであること、私たちはこのことを言葉では知っていますが、実感は伴いません。自分など存在せず、そこにはあるがままの宇宙があるだけだと言います。でも、現実に私たちには社会でやらなければならないことがあり、そんな哲学的な考察よりも大切なことがあります。身体をケアすることも、心のストレスも無視できないことです。私たちは実際に苦しんだり、喜んだりしていて、それは実感を伴うことであり、自分など存在しないという哲学によって打ち消すことなどできません。


でも、私たちは哲学的な考察が嫌いなわけではありません。もしかすると、自分が知らないだけで、未知の真実というものがこの世界の表層を超えたところにあるのかもしれないとも思っています。古代のマスターたちは、この世界は幻想であるとか、すべてはひとつなのだと言っています。そんな言葉を聞いても、私たちはこの世界が幻想だとは思えないし、多様な存在の混在がこの世界だと感じています。実際にそう感じていることを、マスターの言葉ひとつで覆すことはできません。でも、なぜマスターたちはそんなことを言ったのか興味が惹かれます。


古代のマスターたちの言っていることは納得できることもあります。愛することや感謝することの大切さ、許すことや怒りを抑えることで自分を乱さない生き方、そんな人間としての善なる生き方についての言葉は私たちに人間としての正しい指針を与えてくれます。そして、さらにマスターたちはその善なる人間の向こうにはひとつの存在があると言っています。自分だと思っている存在と宇宙そのものの存在はそこでひとつにまとまっているというのです。つまり、すべてはそこから発生していて、善なる生き方はまだ人間を完成させる途上であって、終着点ではないということです。


自分や宇宙はひとつだという哲学は昔からありました。知識として、そのことを理解することはできます。でも、実感することはとても難しいことです。たとえ、自分と宇宙はひとつだと実感できたとしても、それが何になるというのでしょうか。私たちはそれを実感することで、心が楽になることや愛が深まることを期待します。実際に、私たちが自分と宇宙はひとつだと知ることで、心が楽になり、愛が深まることがあるかもしれません。でも、それは善なる人間になることと変わりありません。自分と宇宙がひとつであることを知っただけでは、私たちはそこから一歩も進化していないのです。


私たちは自分と宇宙がひとつであることを知る前に、自分を知らなければなりません。善なる自分を超えたところの、大元の自分自身を実際に知るのです。この自分自身への理解がなければ、私たちは宇宙という壮大な存在を持て余してしまうでしょう。自分の大元を知らなければ、宇宙の話はファンタジーになってしまいます。瞑想によって、自分とはいままで思っていたような個人ではないと理解することができれば、そこからすべてはひとつであるという理解に到達することが可能です。自分の大元は個人ではなく、ただの存在だと知ることで、はじめて宇宙を理解する扉が開きます。そして自分と宇宙の共通項が存在だと分かります。ここまでくれば、私たちはノンデュアリティを理解したと言うことができます。


自分とは個人ではなく、ひとつの存在であり、その存在とは宇宙そのものでもあるということを理解したとき、私たちの何が変わるのでしょうか。宇宙の中に溶けて消えてしまうのでしょうか。実際には、相変わらず自分という個人がそこにいるので、少し戸惑います。私たちは相変わらず個人として生きていて、痛みも幸福も感じています。人間なので、お腹もすくし、眠くもなるし、性欲だってあります。一体何が変わったのか分かりません。私たちは何も変わっていません。自分が存在だと知ったときに、私たちは存在になったのではなく、元々存在だったことを知っただけです。そう知ったときに自分の構成が変わるわけではないのです。


それでは、自分とは宇宙とひとつだということを知ることで、私たちに何がもたらされるのでしょうか。そこに自分の本質や宇宙の真の姿を披露されても、私たちは何も変わらないと実感されます。私たちは宇宙の真理を知れば何かが変わると思っていました。それは私たちをより高い意識へと導き、光り輝く個人になると思っていたのです。でも、そういうことは起こりません。ただ、私たちは自分という存在であるだけです。それは変化することも消えることもなくそこにあります。その周りで時間の経過とともに変化する世界が流れていきます。いままで、私たちはその流れの中にいると思っていました。でも、自分がひとつという存在だと知ったあとには、私たちはその流れの中にはいません。その流れの中にはいないのですが、その流れは存在で出来ています。つまり私たちは流れそのものでもあるのです。


これは一体どういうことなのでしょうか。私たちはひとつの中心として、個人という人間として、そして世界の流れとして同時に存在しています。どれかが偽りというわけではありません。すべての存在が真実なのです。個人はいないはずですが、そこに個人がいるのは存在があるからです。ですから、個人という存在を否定することはできません。世界は幻想なのかもしれません。でも、目の前にある世界はリアルであり、それを否定しては生きていくことができません。私たちはひとつであり、それ以外は存在しないはずでした。なぜ個人も世界も存在し続けているのでしょうか。ノンデュアリティという理解は、こうして私たちに混乱をもたらします。


この混乱が起こるのは私たちがノンデュアリティに留まってしまうからです。私たちはノンデュアリティという真実から、ノンデュアリティでなくてもいいという真実に進化していきます。それは自分がひとつであるという真実へ完全に定着したときに可能になります。そこから離れて、ノンデュアリティでなくていいという理解には発展しません。私たちは個人や世界を否定して、ひとつしか存在しないという真実に辿り着きます。そのあとに、その真実を失うことなく、私たちは個人や世界を肯定していきます。それらを肯定しても、ひとつの存在であるという真実は失われません。個人や世界は存在を素材として創造されたものです。それは存在という何にでも変化できる純粋な素材であるからこそ可能なことです。純粋な素材は完全に静止していますが、それが動いたとき、個人や世界といった姿になります。動きが存在に形や性質を与えるのです。それでもその存在は変化しません。水が雨や氷山や海に変わっても、その本質は水であることに変わらないようにです。個人や世界がどうあろうとも、存在は存在として変化することなく、すべてに内在しています。これを否定することはできません。


相対的な世界にあっても、私たちはひとつという存在でいます。そう分かるのは知性があるからです。ひとつであることは絶対的なので、相対的な物事を否定します。この世界が絶対的であるなら、そこに相対的なものはありません。それでも現実的に相対的なものがあるのは、絶対的なものが相対的なものを望んだからです。もし、絶対的な世界だけなら、それは永遠に動きのない暗闇の世界があるだけなはずです。でも、絶対的な存在からひとつの知性が目覚めてしまい、その知性が暗闇から光を望んだのです。実際に絶対的な世界には暗闇しかありませんが、知性が相対的であることを望んだとき、光が生まれ、それは時間と動きとなり、この世界が次々と創造されていきました。それでも私たちは絶対的な存在としてそこにいましたが、目覚めた知性にとって、その相対的な世界はとても魅力的でした。そのため、私たちはその世界に入り込み、それと同一化したいと望んだのです。世界は絶対的な存在によって創造されたので、私たちが相対的な世界に溶け込むことは簡単なことでした。そうして、私たちは相対的な世界を超えたところにいながらも、この相対的な世界を生きていきます。絶対的でありながら相対的であるとは矛盾していますが、ノンデュアリティを超えたところは、この矛盾を飲み込んでいます。これはこの世界の理論では解明できなことかもしれません。説明がつかないようなことでも、私たちは自分がひとつの存在だと理解することで、その状態にあることを知るのです。

空風瞑想

空風瞑想は忘れてしまった本当の自分を取り戻す瞑想法です。瞑想の中で、今まで気が付かなかった心の新しい扉を開き、静寂でありながらも存在に満ち溢れ、完全に目覚めている本当の自分をそこに見つけていきます。そこを自分の拠り所にするとき、新しい自分の人生が始まっていきます。